ヒルデガルダの城                               鳥居未由

 

 

 

 ヴァンゼルト伯爵の処刑以後、北の国の女王は国民の前からきっぱりと姿を消した。かの勇姿から一転し、らしからぬ有様に市民は肩透かしをくらった心持ちであったが、腰の落ち着け方を知らぬ陛下なればいずれまたと、かえってあからさまな期待から隠伏に文句をつける者はなかった。その信心により王政は滞り無く、天運にも恵まれ、わずかの内に国民の興味は文芸や歌劇、舶来の品々へその手を伸ばし始めていた。国教会の礼拝堂は神像と天使の絵で飾られ、その外観は幾年の後に樹木のように高々と成長し、それに従って信徒もかさを増したが、その華々しさにも関わらず女王は相変わらず影さえ見せずに、城下が知るのはささやかな声の残滓ばかり。聞くところによると女王はその為政もまたらしからぬ様子で、南の帝国へも、国内の貴族らへも牽制を続けるばかりであり、停滞につけて然るべき不満は起これども、女王の着るヴァンゼルト伯の過ちという隠れ蓑は破れないままであり、ならばいずれ来る決断の機を待とうという腹づもりで彼らは一時の落ち着きをみせていた。ははあ、女王の正義は実のところこの算段によるのだなと市民は得心した。とはいえ構う事は無い、民草たる我々は扇がれるままになればいい。国民はそういった面構えをとったが、実のところ、勇ましい女王へ向けた幼い憧れを、その裏に抱くままの者は多かった。

 

「おい、後で横にさせてやるから、そろそろしゃっきりしてくれ」

「ああ、ああ、わかってる」

 衛兵のエルモはその日、酒場で夜を明かした。昨日は昼中かけて護衛行進を務めた、その疲労と酔いが残って朦朧としている。眠りへ落ちきるでもなく、目を開けているわけでもない、水の中へ全身を沈めたような夢想の中でくだを巻き続け、ついに翌朝に至った。堅い手の中では安物の蒸留酒が渦を作っている。視界は漠然として定まらず、エルモは硬直した身体が億劫になり始めていた。

「起きないか、仕事をしてもらわねえと、困んだ」

 店主がエルモの背中をつつく、無理矢理起きようと血の巡らない頭を上げると、目先にふと品書きが見あたった。茶気た紙の端に加えられた小さな店主の文字が目に留まる。

 “ Hildegard ”

 灯りの消えた店内でその名前がエルモの意識を捕らえた。とりとめのない夢想の中に幾度となく現れた、この国の女王の名前である。エルモはかの勇姿への憧れを思い出す、ヴァンゼルトの処刑に立ち会った観衆の中にエルモはいた。軍人を志した頃には、正義らしきものになにもかも奪われていたものだ。今でも真面目に勤め、やくざにならずにいるのはそのおかげだが、どうだ、よくもこれほどうだつの上がらない男になったものだと、エルモは自嘲する。結局人ひとりなど、大容積をもってたゆたう海水のひと雫と同じだ、矮小な市民は一喜一憂に逆らえない、飲み込まれるがままに従い、流されるがままに思うだけ。かつての正義も、人波に飲まれたがための迷いだったに違いない、エルモは諦めていた。

 ああ、俺にも女王のような溌剌があったなら!経世済民を頼む潮流に舟を浮かべ、時代に舵切る慧眼が、俺にも備わっていたなら、この世はどんなに自由意志に満ちただろう。その胸に革命を秘めて見えた、かつての女王のような才気煥発は俗にはあり得ない、エルモは憧れも夢のうちに諦めようとしていた。そして女王はもう現れない。安い酒でできた小さな渦を見下ろす、かつて、勢力にかまけてもんどりうった自由意志の津波は、今では器の内側へ自重をもって沈み込み、王城に座り込んだ女がその力の主である。笑った女が器を見下ろし、俺たちがその中に浮かんでいるとしたら。面白くない話ではあるが、若くなくなったエルモの手は衛兵で居続けるだけで一杯である。エルモは溜め息をついた。

 

 すると店主も溜め息をつく、エルモが顔を向けると、店主は窓際にもたれて外を見ていた。臨む東の空はもう明るくなり始めていて、街並には増築の最中である国教会の不気味に伸びた青い影が落ちている。大時計の短針が四の字辺りを指すのがぼんやりと見える。店主はその下の通りを見ている、まだ暗い石畳の中央を切って小走りにこちらへ向かう小さな人影があった。その腕には紙束か木材かが抱えられていて、陰に黒い姿は教会と同じに樹木のように伸びたおかしな形をしていた。

「あいつが今日に限って遅いのは別に俺のせいじゃないが、まあ色はつけよう。時間になったら起こしてやる、悪かったな」

「運が悪かったんだ、あんたのせいじゃないよ」

 エルモの頼まれ事は、閑散とした通りで躍るあの小馬鹿をひっとらえ、詰所へ引きずってゆくことだ。あれは非常に困った男である、西の国から呼ばれた学者の一人であるのだが、奴に限って道化のように疎ましく、悪童のように素っ頓狂な真似をする。ある時は裸で白昼の下に現れ、またある時は馬車馬を拝み、この間はおかしな格好をしたまま城壁の脇でくたばっていた。エルモにはわからないが、頭はきれる奴らしい、腕も確かなようだ、けれども無闇に騒がれては衛兵として見ていられない。何度か面倒をみるうちに、店主のように始末を頼む者もつきはじめた。くだらない仕事とはいえうんざりすることはない、とっととあいつをふん縛って、できるだけ長く眠ろう。

 近づく奴を指差して苦笑いをし、戸口へ歩く店主をエルモは見ていた。以前にも彼は同じ表情をしていた、自分も同じようであったろう、扇がれるがままになればいい。溌剌な女王の記憶に、エルモはまだ後ろめたさを感じていた。

 その間に戸が弾かれ、奴の不敵な笑みが現れた。

「世紀の大発明だ、まさしく千年を越える!私がちっともめげなかったおかげで人間は最も偉大な開発を成し遂げた、これぞ犬の手、猿の火、人の鉄である!マスター、一人目だなありがとう!ちんけな小生のこの大健闘を大歓声で、大杯で、大酒を、大酌して大祝ってくれるのだろう!ふさわしい奇跡を贈ろう、そしてそれも主と陛下と『白騎士』様と、そして俺様のおかげだ!」

 奴はけたたましくまくしたて、テーブルに腕の中のものを埃とともに散らかした。虫や鳥の素描や図面の束の中に、木製の、形の崩れた円盤のようなものがある。黙らせようと伸ばされる店主とエルモの腕をかいくぐりながら、奴は長い口上の末、店主に円盤を突きつけてこう締めくくった。

「これで人間は飛べるぞ!」

 その口を覆いながら、聞き飽きたその言葉に二人は顔を歪める。その裏でエルモは、この男の本性が女王と同じに、夢のように革命的であればと惜しんだ。

 彼の名前はリヨン。西の国から来た変わり者である。

 

 

 

 リヨンのアトリエは大広場近くの宿舎に設けられ、そこに住まいながら教会の増設と美術品の制作を手伝うというのが彼の仕事の一つだった。仕事の早さと出来こそ認められてはいるが、黙って任せていると勝手な真似を進めてしまうため、現在のリヨンはもっぱら足場組みや彫刻の下地づくりを任せられるばかりである。アトリエの中にはそんな扱いを受ける前に制作した神像や絵画がぞんざいに置かれており、エルモは椅子に腰掛けてそれらを眺めていた。描かれた天使や神々の格好は素人目にも奇妙である、芸術品としては大いに完成を見ているはずだとエルモは評するが、教会の装飾に向かないのも確かだろう。

 リヨンが早朝の酒場で騒いだあの朝からしばらく経つ。エルモは非番であったが、外来人を苦手とする知り合いの役人から会うのを代わってくれと頼まれた用があり、仕方なくリヨンのもとを訪れていた。奥に資料を取りに行ったリヨンを待ちながら、エルモは内装の品々を頬杖をついて見ていた。

「よくもまあこれだけ、律儀にとってあるもんだなあ」

「違やい。棄てると神父につっかかられるからだ、あいつ、聖書が作法がと何度も」

「お前が知らんのが悪い」

「知らんのではないと前にも言ったろう、その類は癪なのだ」

 話している内にリヨンが箱を抱えて戻ってくる。

「お前、力仕事はともかくな、いい加減に絵のひとつくらい飾ってみないか。来たばっかりじゃないんだ、聖書も読んだならちょっとくらい試してみればいい。お前ならなんてことはないだろう」

「なんてことはないから為すってのも癪だ。僕の好奇心は金や評判のためには働きません」

「なにも好奇心ってわけじゃない、仕事だろうが。小手先でちっとだけ」

「そういう態度で臨むのであればね、おっさん。私は、己が情熱を傾かせて励む方がよっぽどよく働けると思うがね」

「はあ、そうかい」

 熱が無いからこうして下手に誘っているのにとエルモは呆れる、リヨンは私情へ意欲的なくせに理屈に懐疑的だ。どうしても言いくるめたいわけではないが、小賢しい。

 リヨンは机に資料を並べた、エルモには読み方のわからない図や説明で一杯だった。頼まれ事とはいえ、エルモはリヨンから真面目そうな話を聞けるとは思えなかった。真面目な話を引き出せたとして、この小馬鹿に尋ねながら説明を受けるのも不服だ。エルモは気取られないよう尋ねる。

「ああ、それで。本業の進捗を聞かせろよ」

「我が友よまさにそうだ!この間も結局は墜落したが実験としては悪くなかった、翼の表面積も柔軟性もまずまずの応え方だったが動力の不足は隠しきれない、のであれば機関部の馬力をより高める必要があるのは明らかだがそれにしても体重を骨にするのは難しい。鳥類のような羽ばたきであれば機体の背骨を支持できるが、それを加重に替えては元も子もない。滑空の空気抵抗を利用してなお平行に保つまでは良かったがそれも成功率は高くない、未だ問題であるのは操縦席と操舵桿と動力機関部の置き場であり、搭乗者の体重であり、より大規模な飛行の実現であるからして」

「違う」

 エルモの声は届かない、そうだったか、リヨンの本懐は全くこれであったなと後悔する。

 リヨンの、趣味は、人間の飛行を可能にする装置の開発である。人間が地上を離れ、意のままに飛行するための舟のような装置を建造し、リヨン自身が実際に飛ぶまでが彼の願望だ。学者リヨンにこれが無ければどれだけ真人間だったろうと、常々エルモは頭を抱えていた。冴えるリヨンの腕をもってしても飛行が難攻不落な難題であるのは目に見えている、興味の無い者からしてみれば、金と迷惑のかかる終わりのない道楽であろう。リヨンの面倒を抱える上でこれが一番に風当たりが強い、まず実験飛行自体が目を引くために毒だ、さらに十中八九失敗に終わるため興味本位では見られない、そして大怪我を重ねて発狂するリヨンの姿が最も痛ましい。本人は怪我を痛まず、探求の喜びなどに浸るとか染まるとかと語るのをエルモは知っていたが、だからといって手に負えることにはならない。目の前で起こるリヨンの、類い稀な熱心が折れぬ事は誰もがわかっていたし、奇天烈な男のもとに好んで押し掛ける者などいない。口やかましい両者の板挟みにあって、エルモはなんとかリヨンの熱をいなそうとばかりしていた。

「つまりはこの回転機構である!この風車の直径と、羽の湾曲や厚みの改良を重ねれば、有人飛行はもう、余には遠くない未来世界であるなあ」

 リヨンは壁にかけられた無数の円盤の中から、見覚えのあるものを外して机に置いた。エルモが先日酒場で見たものだ、どうやらこれは風車らしい。風車ならば人間よりも良いものを運べるだろうにとエルモは、言うと唾を飛ばされそうなので胸にしまった。

「はあ、だから違う」

「何が違うものか、いいか、この風車の回転が大気を送り出す。船具の櫂が水面へ割り入り、その運動が舟へと作用するように、この風車の回転は機体のぶつかる大気の壁を割り、効率的な風を両翼にもたらし、そして滞りなく無限にこれを行うのだ。つまりこうだ!」

 言うが早いかリヨンは鉄の棒に風車を取り付け、手で勢いよく回した。

 床と水平に回転するその風車が、足下へ風を起こしているのがわかる。アトリエに散らかされた紙片がいくつも吹き上がり、砂埃が立つ、風車の下側で軸を支えているリヨンの髪や上着の裾も、城壁に立つ旗のようにはためいている。エルモは頬杖をそのままに、細目ででその渦を眺めた。

 回転の速さが落ちるにつれ、アトリエ中の揺らぎも穏やかになる。丁寧に羽を止めたリヨンが、エルモへ向かって悪童のような笑みを向けていた。

「な?」

「なあ、違うんだ」

「だから見たろうが、これで余は政権を獲る」

「余じゃねえ、お前はなんのためにこれを、持ってきたんだ」

 エルモは机の上で散り散りになった資料を指す。

「ああ、そうだったな」

「お前の仕事は有人飛行の実現じゃない、わかるな」

「なんだ、承りました、ああ承っていましたとも」

 リヨンはさもうんざりと言った身振り手振りで風車を片付け始める。エルモはその背を睨みつけて続けた。

「これは、何だ」

「私めの提案する、新しい射撃銃です」

 

「これまでの銃では狙撃と言っても有効なのは精々、そう、表の通りの突き当たりから反対の突き当たりくらいの距離は、的が子供くらい小さけりゃ見えても当たりません、当たったとしても威力は格段に落ちている。これはなかなか変えられない制約です、ここ数年で火薬の選別や着火・装填の方式は開発のしがいがある着眼点として諸国で注目され続けている。これは運用を容易にする目的だ、安く量産し面制圧力を高められれば従来の需要に応じた戦術兵器として完成する。しかし射程距離の延長、加えて命中精度の上昇は、まあ論点として当たり前の事ではあっても実現には効率的でないだろう。安価で簡素で使い回しのきく攻撃手段が現れたとはいえ、騎士制も一応ながら継続されています、白兵戦はまだ戦闘の基本だ。銃の生産で重要なのは安く、数が揃えられる事、製造は一律に差を作らず、早くなければならない。それだけに改善されない。

 そこで、思いきって射程を伸ばしてみましょうという提案だ。論点として当然とは言ったが、開発に挑んでみようとしたところで、西でも北でも方法から模索しなければならないのが現状です。私が提案するのはその無かった方法、弾丸が正確に撃ち抜く距離を伸ばすために、従来の射撃銃に加えられる改良の案でございます」

 リヨンの本職は技師である。知識をもつ学者として国に招かれた以上なにかしらの研究を進めなければならなかったリヨンは、本人からはもちろん飛行する装置の開発を希望し、その企画を提出していたそうだが頭ごなしに棄却されたという。国のためを考えろと叱られた挙げ句、皮肉のつもりで兵器を製造すると言ったところ受理されたというのが彼の顛末である。

 それにしても、どうしても学者らしく見えるのは俺が素人だからか、とエルモは訝った。背中を丸めたリヨンがつまらなそうに方々を指して言うことが、エルモにもわかるように程度を下ろされた言葉なのだろうが、飲み込めていないのが正直なところだ。

「はあ、そうか」

「そうとも」

「それで、どういった案かは教えてくれないのか」

「真面目だな…」

 リヨンは資料をいくつか取り払い、設計図らしいものを指した。銃床の形状や銃身であろう部品などにはエルモにも見覚えがあるが、一目見て不可解な点もある。

「望遠鏡の図が、混ざっているのか」

「これは付属品だ、正確に的に命中させるための照準を行うために必要になる。別に形が同じだからって倍率はそれほど大きいわけじゃない、予想できることさ」

「そう、なのか」

「そうとも、以上だ」

「しかしこの銃はどのように点火するのだ」

「ああ。ああ、そうだな。

 正直言ってこの図の着火方式は舶来品のものを真似てある。お前達兵士は銃に、銃口から弾丸を篭める、撃鉄を引いてここに火薬を入れる。この火薬も、受け売りの情報だが注文を添えておいた。それから、撃鉄を完全に起こす、お前達はこれまで火種を点ける必要があったがこれは無い、かわりに燧石がくっついている」

「すいせき、か」

「火打石のかけらがくっついてる。銃口を的に向け、引き金を引くと火薬に火がつき、発射される。部品の構造は足されているが、まあやっている事は同じだ」

「そうか」

「そうとも、以上だ」

 

「しかしな」

 リヨンは片付けを始めたが、エルモはまだわからない。

「これだと顔が焼けるぞ、てんでだめじゃないか」

「それがなんだ」

「つまり、報告を終われない」

 顔を歪めたリヨンは鼻で唸りながら、エルモを睨む。こちらも報告を頼まれているのだとエルモが加えると、リヨンはのろのろと立ち上がり、足下に置いてあった木箱を机にあげ仰々しく蓋を開いた。中には金属の長い砲身と木製の滑らかな銃身の他、説明にあった着火の部品と、おかしな形の銃弾が木屑の上に置かれている。

「いいか、お前は触ってはいけない、全部だ」

 背筋を伸ばしたリヨンは革の手袋をはめ、銃身を取り上げた、顎で図面を指しエルモに促す。

「では、最後まで説明をしよう。

 さっき言った通り、実際に用いる射撃銃の製造には時間と費用は掛けない方がいい。その考え方では実現できないところを突こうというのが僕の提案だ。つまり、これから説明する二つの機構には手間と時間と金が大いに必要となる、すなわち実際的でない前提がある。そして開発である以上、全くの空論というわけではないが手を出すとなれば危ない、とも知っておいてほしい」

 リヨンは前置きの後、エルモに銃身の端を差し出した。

「図面にあるのは、つまりこういう事だ」

 エルモが片目を閉じて触れないように覗き込むと、その奥に日光に照らされた石の床が見える。そのうちにリヨンが銃身を回し始めた、すると、銃身の内側に彫られた無数の繊細な溝が白く光った。回転に従って万華鏡のように光が移ろうと、その溝は緩い螺旋を描いているのがわかった。

「銃弾は火薬の爆発によって運動を始める、筒の中を沿って直進すると銃口から飛び出した後もその運動が続き、重力に従っていずれ落ちるか、あるいは的に命中する。つまりこの過程をより正確にすることで、狙撃の命中率を上げられる。火薬の詰め方、点火の仕方、銃身内部の傷や歪み、銃弾の偏り、それらによって生じる銃弾の回転、こういった要素が命中精度に深く関わる。

 今お前に見せた銃身内部の溝は、これと組み合う」

 リヨンは銃身を片手で垂直に持ち、先細りで棘のついた銃弾をつまみ上げる。リヨンが上から銃身の端に銃弾を合わせると、あたかも剣を鞘から抜き出す時のような摩擦音の後、銃身を抜けた銃弾は箱の中へ落ちた。箱の中の銃弾は正確な星形を見せている。

「弾丸の突起が銃身内部の溝を伝い、弾丸はねじのように回転しながら進む。重量が不均一な銃弾が、不規則に回転しながら発射された場合と比べて、この機構から発射される銃弾は格段に正確な直進をする。なぜかといえば、例えるなら」

「お前の風車か、そうだろう」

「そうとも」

 風車の回転は機体のぶつかる大気の壁を割り、効率的な風を両翼にもたらし、そして滞りなく無限にこれを行う。なるほど、リヨンの趣味も無駄ではなかったわけだ。リヨンはエルモの溜め息を遮りながら、木箱の蓋を閉めてしまう。

「これでひとつ。そして前置きしたように、これには手間がかかる。見本で用意したこれは、弾丸も含めて全ての部品を僕が一から切り出して彫刻したものだ。量産するなら、僕が十人いても年では済まんだろう。

 ただし、同じ前置きをした上で話を進められるのであればもう一つある。さっきの銃弾は、言わば命中する、銃口から飛び出て、当たろうが外れようが返らないものだ。これに、この筒を加える」

 手袋を外したリヨンは図面を新しく取り出し、得るもの前に広げた。

「金属でできた小さな筒の先に、銃弾を置く。その下には火薬が手作業で詰められていて、底を突くことで点火できる。これを特製の銃身を用いて銃口からではなく射撃手側から装填し弾薬を閉鎖、使用した筒を排出、再装填までできれば、顔は焼けないので狙いが定まる、火薬は閉じられているので銃身の中は汚れない、更に火薬の細工ができるため射程距離も伸びる、だろう。

 これがひとつ、しかし費用がかかる上に、暴発の危険性がある」

 リヨンは言い切って黙る。エルモは応じられずにいた、しかし肝心な事を聞いていない。

「…そうか」

「そうとも、今度こそ、以上だ」

「では最後に質問がある」

「ああ、最後だろうな」

「これが完成した、暁には」

 リヨンがあからさまに眉間に皺を寄せた。

「どれくらい遠い距離から、狙撃ができるのかを教えてくれ」

「そうだな」

 エルモは、漠然とした感心の裏で、緊張を感じていた。

「訓練の後に国教会の尖塔から撃つとすれば、マスターの店なら確実、条件が良ければ城門までが射程圏内だ」

 

「まあ、計り知れないとしか言えん」

「端折ったとはいえ、二度も言うのはごめんだぞ、おっさん。頼まれてるんだからちゃあんと説明して、俺のところへは寄せないでおくンな」

「わかっている」

 リヨンは既に風車の図面を広げていたが、エルモは座ったままでいた。膝の上に渡された狙撃銃の資料を目で反復しながら、エルモは唇を噛む。軽々と国を越えて道楽をするこの男が、こうまで実務的になれるとは思っていなかった、気が引かれるのをエルモは感じていた。出来がいい奴というのは皆こうなのだろうか、エルモにはそう思えなかった、情熱の外で人並み以上になれるのは、強烈な自意識が渦巻いているからなのか。

「お前、これを一挺こしらえりゃあな、大儲けだぞ」

「金や評判のために好奇心は働かないと言ったろう、全ては」

「わかっている。俺からですまんが、我が国のためによく力を尽くした。ありがとう」

「わかってないなあ、わかってない。お前さんはわかってないって私はこれまで何回言ったかなあ」

 突然口ぶりを変えるリヨンにエルモは動じなかった。

「そうだな、お前が飛ぶために、よくぞ」

「違あう!」

 リヨンはわざとらしく言い、エルモは余計な事をしたと後悔した。

「俺はお前らが怖くて銃を作ったんじゃない、ましてお前らにありがたがられる筋合いもない。有人飛行に必要なのはお前らの国じゃない。俺を、人を動かすのは好奇心、夢だ!夢とは憧れである、憧れは恋である、恋は忠誠、忠誠心の至る理想郷だ!お前はわかっていない、言ったはずの事をなにもわかっていない、この銃は翼だ、木材と布でできた広い翼、手ずから磨いた風車、雲を漕ぐ鉄の舵だ!俺が飛びたいのはどうしてだと思う、ううん?」

 椅子の上に立ったリヨンは机へ乗り出し、腰掛けたままのエルモを脅す。

「…空」

「そうだ、千年を越そうともがく探求の原動力は全て空への忠誠心だ!一途に慕い、身も心も明け渡し、名誉も投げうつ恋の末に、向けられぬ微笑みを密かに望む純朴な忠誠心だ!ならばこの銃は誰のためだ?」

「…しろ」

「『白騎士』様だ!」

「…そうだったな」

「そうとも、全てはこの国にまします『白騎士』様への忠誠だ!あの威風堂々に一生を捧げると決めた時から、片時とてこの満ち足りた感情を忘れた事は無い、あの方の視線の先が理想郷、あの方の髪のなびく場所が理想郷、そうであろうが!」

「お前、まだそんなことを言ってるのか」

「そんなこととはなんだ、無礼者」

「無礼なのはお前だ。いくらあれが美人ったって、そこまで入れ込む事はないだろうに」

「ただの美人ではない、男にとって特別な艶を放つ、とびきりの美人だ!」

「じゃあ美人じゃなくてもいい、だからな、あれは言っても所詮は、憲兵だ」

「ただの憲兵ではない、教会の聖性に仕えるひときわ清廉潔白な憲兵だ!」

 リヨンの言う『白騎士』は、彼の悪名高い空言のひとつだった。『白騎士』、名前をリーリエというその女の職務は、実のところ憲兵に類する。所詮は憲兵だと低めたものの、実際のその地位は高い。かつて騎士修道会が立ち上げた組織である教会騎士団の位置を継いだ、国教会の運営に現在も携わる「教会憲兵」部門にあり、『白騎士』はその中でもかなり上の人物であるはずだ。騎士の組織とはいえ既に女性の人員を多く含むようになっているが、上位に就いているのは珍しい、噂では貴族かなにかの後ろ盾があるのだという。

 リヨンは国教会へ勤める都合で面識を持つ機会があったらしいが、先に何も知らされていないにも関わらず初対面の彼女を『白騎士』と呼ばわり、跪き、忠誠を誓ったという。曰く。

「美人と言おうが憲兵と言おうが関係あるまい、『白騎士』様に会った瞬間、私と既に堅い主従関係にあったと気付かされたのだから!」

 騎士呼ばわりは遠からずとも、廃れた騎士道を倣うにしては騎士に従うという裏腹を犯しているのはなぜだろうか、エルモは再三リヨンに尋ねたが、うやむやに突き通されてしまってばかりだった。とにかくリヨンは夢のように憧れているらしい、エルモは火の粉がかからぬようにと願っていた。

 

「語るのは構わんがな、好きなら好きと言えば良かろうが。謂れのない恩を売られるより、売ってなくてもだ、一言ぽつりと告げて終いにしたらいけないのか」

「わかってない、貴様はさっぱりわかっておらぬ。忠誠のいかんともし難い憂いを、劇薬を前にした痺れを、そして手を伸ばし得ぬ背徳の緊張を、わかっていないのだよ」

「本当に大概にしておけ、身のためだ」

 役者のフリか、大仰に胸を張ってリヨンは台詞を回す。机の反対側でエルモは思い出した事があった、わざわざリヨンに伝える事でもないだろうと考えていたが、この際言ってしまえ。

「それにな、その『白騎士』様だが。おい聞け、お前のためだ」

「聞いている、応えないだけだ」

 リヨンは椅子の上で演劇を続けていた。

「では言わせてもらうがな、その『白騎士』は結婚するようだぞ」

「馬鹿をいう、な?」

「既に式も予定されているという事だ、なんでも大貴族の男が申し込んだらしい。城の奴らが言ってたからな、かなり盛大なのは間違いないだろう」

「誰だ!」

 リヨンは椅子を蹴り飛ばして机を飛び越し、エルモに掴み掛かる。しかし軍人エルモは小柄のリヨンを捻って床へ転がした、エルモはそのまま続ける。

「誰だと言われても詳しいところは知らん。だがどうやら俺が護衛に混ざった賓客がそうらしくてな、その時に御一緒した南の兵士に聞いた、名前は知っているぞ。モーリッツという、なんとも厳めしい御名前じゃないか」

「モーリッツ、卿」

 リヨンは痛みと怒りに背中を震えさせながらも変わらず言う。

「卿と言って正しいかもわからん」

「いつだ、日取りは決まっているのか、いや今なにをしている!」

「お前、おとなしくしないとしょっぴくからな」

「ああおとなしいとも、おめでたい、まさにおめでたい!それはいつだ!」

「式は明後日。今かはわからんが、国教会へ二人して訪問すると、聞いたな」

「行くぞ!」

 

 

 

 国教会の増築はここ数日手が止まっており、エルモはなんのためかと疑問であったが、なるほど結婚式を開くのに不格好ではいけない、そのため上方の足場は基礎を残して裏手に隠され、少なくとも鐘と大時計には障らぬ形にされていた。そういえば古びた処刑台も覆いをされて隠れている。話の終わりに狙撃中の木箱を開けようとしたリヨンを抑えたエルモは、しかしそのまま放っておくわけにもいかず、リヨンと共に国教会を訪れることとなった。リヨンが神父から遠くのベンチに座って内装にぶつぶつ文句をたれている間、エルモは居合わせた信徒や神父からモーリッツについて尋ねた。

「モーリッツは北の国南部の出身と考えるのがいいところだろう、護衛行進も日中に南から王城へ長々だった。やたらに金持ちで王と口が利くのかと思っていたが、むしろリーリエの…」

「『白騎士』様」

「…『白騎士』の後ろ盾が招いた男だそうだ。それもかなり急な縁談らしい。どうやら『白騎士』はそうとう強力なご身分らしいな、ついでに彼女についても聞いてみたが、わからん。地方も国もわからない、本人が北の国出なのは間違いないが、その後ろ盾が家なのか、縁なのか、あるいは恩なのか、なにもわからん。ともあれモーリッツとは普通に結婚するだけらしい、普通に式を挙げ、普通に彼女が嫁ぐ」

 エルモはリヨンに導かれて裏手から足場を昇り、礼拝堂を見下ろせる梁の陰まで来ていた。ここから盗み見をするのだ、初めからそのつもりのリヨンは狙撃銃に用いるはずの望遠鏡を持参し覗き込んでいたが、無くても人の顔くらいはわかる距離のはずだとエルモは思っていた。

「政略結婚だ」

「はあ?」

「後ろ盾とやらがどう考えているかは知らないが、なぜ『白騎士』様を嫁にやる必要がある。結婚には早いはずだ。モーリッツ卿の半端さもわからんだろう、金にかまけた派手ならそれでいいが、お前達が護衛しなければならなかったのは何故だ。有権者である『白騎士』様が、どうして、金持ちでもないくせに護衛までつけられるモーリッツ卿を迎え、結婚をしなければならない」

「若いったって別におかしな年じゃない、お前の年で女がいない方が不思議だ。護衛がつけられたのはおそらく政治上の問題だろう、ヴァンゼルト伯爵がそうだったように、モーリッツも北の態度をよく思っていないとすれば、現状が変わったとはいえ無闇に顔を出すのは避けたい、なんてのでどうだ」

「事情が合っても違うだろうな、隠れるなら夜に歩かせればいい」

「それはそうだが、じゃあどうしてだ」

「知らん、とにかくモーリッツ卿の面を見るまではわからんことばかりだ」

 神父は今日の午後にリーリエとモーリッツの訪問を承っていた。リヨンはそれまでずっと望遠鏡を覗いているつもりなのだろうか、一心不乱の後ろ姿は、エルモに真面目な話をした学者のものとは思えないほど小者に見えた。

 

「表に馬車が来ている、あれだな」

「うるさい」

 リヨンの望遠鏡の先を見ると、リーリエとモーリッツらしき男が神父の開ける礼拝堂の扉に現れていた。エルモの知るリーリエはいつも国教会の紋が入った軽装を着ていたが、今日は外している。肩幅の広いモーリッツはあたかも高級品といった見た目のコートを腕に提げ、大きく歩きながら飾られた絵画を順に見ている。あまり頭を出さなければ下からこちらは見えないはずだ、リヨンがお構いなしに乗り出しているのをエルモは引っ込めた。

「田舎者は上を見る、だ。卿は来たことないのか」

 リヨンがぶつぶつと文句を続ける間に、二人は祭壇へ跪く。

「はあ、二人でお祈りね」

「…」

 エルモが頬杖で眺めている間、リヨンは全く口を開かずじっとモーリッツの方を見ていた。祈りが終わると、神父と話を始めたリーリエを置いて、モーリッツはさっさと去ってしまった。

「割に男前だったな、モーリッツは、おい」

 エルモが小声で話しかけるが、リヨンは眉をひそめて動かなかった。『白騎士』様を見納めにするつもりだろうか。そう考えてエルモが中腰で外へ出ようとすると、リヨンはその足を掴んで止めた。

「お前、危ないだろう」

「ああ、危ない、『白騎士』様が危ない」

 望遠鏡を外したリヨンの顔は青い、エルモは不可解だった。

「どうしてだ」

「モーリッツ卿は帝国だ」

「はあ?」

「初めは物珍しそうに見回しておいて、モーリッツ卿はさっさと帰っちまった。あいつはこの教会に来た事が無いんじゃない、そもそも礼拝にさえ慣れていないんだ。この国で流行りはじめた教会の作法をわきまえない人間などいない、ましてや貴族ならなおさらあり得ない、ところがあいつ、わざわざ『白騎士』様を追って祭壇のどちら側に立つかを決めた、引き膝も違ったし、唱和の口も曖昧だった」

「待て、それくらい構わんだろう、疑りすぎだ」

「モーリッツ卿は初めからおかしかった、教会でふんぞり返って大股歩きだ、絵を見るふりをしながら内心はどうでもよかったに違いない。『白騎士』様がお話をされているのだからその間ものろのろ見回ればいい、さっさと帰っちまったのはどう考えても逃げだ。教会へ来たのは『白騎士』様の考えのはずだ、帝国とこの国の教会で作法の違いはほとんどないはずと高を括ってはいたが、そもそも礼拝を知らぬのでは話にならない。あの頑固野郎の神父の顔を見たが、貴族のくせにふてぶてしいとか思ってたんだろう、明らかにモーリッツ卿を睨め付けていた。あいつが帝国から来たなら礼拝に不慣れでもおかしくはない」

「それは疑心暗鬼という奴だ、いい加減にしておけ」

「奴が帝国から来たとすればお前の護衛も話がつく、モーリッツ卿は『白騎士』様との結婚のために帝国から招かれた貴族、北の国は落ち着いたとはいえ帝国とは因縁がある、商売なんかならまだしも貴族の若い男が来るなんて馬鹿げいているんだ。見たところあいつは抜群の金持ちで間違いない、頭の先から靴底までなんでもかんでも新品だ、高値のものならなおさらだが、出先であれを揃えるのは道楽に近い。帝国の貴族で金持ちならなおさら昼間に行進させたりしちゃなんねえ、ただし場合が違えば関係無い。同乗者が居たんだ」

「お前からすれば金持ちだろうが、車も憲兵が牽いていたし」

「同乗者はおそらく縁談を持ちかけた『白騎士』様の後ろ盾というやつだ、そしてその後ろ盾は金持ち貴族より偉い、秘密裏に帝国へ向かったその後ろ盾は、モーリッツとの話をつけた後、これは晩の間に帝国を出た。やはり南からの輸送は帝国を通ってきていたからだ、北の国のお偉いさんとモーリッツ卿を乗っけた車は、南部の貴族の護衛と偽られて王城へ至る。鼻持ちならない南の人間がのうのうと運ばれていようが、北の者が迂闊に手を出すなんて滅多な事じゃない」

「じゃあ誰なんだ、教会憲兵のために縁談をあてがえる、帝国とも顔が利く奴は」

「女王だ」

 リヨンは真面目な顔のまま言う、エルモは口がきけなくなった。

「女王ヒルデガルダが、あるいはそれに代わる新王が『白騎士』様とモーリッツ卿を結婚させる。

 いいか、これまで王政がどう計らってきたのか、僕は知っている。小娘のふりをした女王、その末に貴族をあぶり出しにした処刑、一転した籠城、それらはなんのためだ。ひとつは北の国の維持のため、ひとつは外国から侵されないためだ。王政は長らく転覆しないまま保たれた、国力も傾向としては豊かになりつつある、とすれば次は何か、具体的な関係を他国と結び、北を保護する。

 『白騎士』様が王の直下にあるとすれば、帝国の金持ちに嫁がせるというのはかなり身を切った贈賄といえる。まして今の『白騎士』様は教会憲兵の幹部だ、今後も拡大する国教会の一端を差し出すのであれば、因縁の境を差し止めていた堰はかなり強堅になる。つまり『白騎士』様は、王政によりその防御のため、ひいては帝国へへりくだるために、モーリッツ卿と結ばれるのだ。とすれば、これは政略結婚だ、『白騎士』様の純潔が危ない」

 そう言いきって梁の陰から立ち去ろうとするリヨンを、今度はエルモが引き止めた。

「馬鹿が、全てはお前の空論だろうが」

「お前から聞いた話につけて考えてるのに空論とは随分な言い方だな、放せ」

「ではお前の言う事が正しかったとしてだ、構うことなどない」

「構わないか?」

「構うものか、女王…王政が教会とリーリエを差し出すのなら、それで文句はないはずだ。国教会を育て上げたのも、リーリエの地位を作り上げたのも、お前の言い分では全てが王政の謀だろうが。自分で実らせたものを自分で対価にする、それでいいだろうが」

「『白騎士』様は対価ではない、神の御許で純潔を保つ、かけがえのない象徴だ」

「それではどうするというのだ、いや、お前は何もしてはならない」

「なぜだ!」

「全てが空論である事に変わりはない、そしてお前が関わる筋合いも無い」

「然るべき筋合いとはなんだ、僕の忠誠心は変わらない、実現の時まで、決してだ」

「満足に飛べないくせをして、甚だしいぞ。控えるんだ、そして忠誠も無い。俺は兵士だ、お前を止めなければならないのも、お前が逸るべきでないのも、わかるだろう」

 エルモが知らぬ間に掴んでいた肩をリヨンは振り払った。リヨンの目がくすんで見える、エルモは、見失っている自らに気付いていたが、目が眩んではうずくまるしかない、それは仕方がないのだと自らに言い聞かせた。

「お前は衛兵だったな」

「そしてお前は学者だ、学者が不届きな真似をすれば、いかなる場合でも止める」

「お前は分からず屋だ、いいか、肝心なときにだんまりな奴はいくらでもいるがな、名誉にかまけて私欲を抑えつけるのは裏切りと言うんだ。肩書きに理屈をつけて口をつぐむような奴は、男として最低だ!」

 息巻く自分を、リヨンが知らぬ顔をして見ていた。

「…そうか」

「そうとも」

 

 

 頼まれた報告を終えた翌日、エルモは城壁付近の警護にあたることとなっていた。リーリエとモーリッツの結婚式場として王城正門が開けられる事となり、それは市民の間へ知れ渡っていた。その騒ぎの中で、エルモはリヨンのした憶測を忘れる事ができない、そして、奴が良くも悪くも実直に生きていることを羨んだ。懸念を抱えていようが、有象無象の小市民はそれを表す事はない、騒ぐ同僚へいつもと変わらない応じ方をして、この立ち姿もなんの変哲もない、ただ、胸の内に絡む重いわだかまりばかり、エルモは見つめている気がした。

 女王ヒルデガルダの溌剌とは、なんだったか。リヨンの中心にある強烈な自意識がその才能を支えているとしたら、女王の秘める輝かしい革命は何を燃やしていたのだろう。夢のように革命的な、硝煙に立つ血みどろの姿、その勇敢は本当に夢に終わるのかもしれない。見る者の抱く、引き絞った弓矢のような夢想、的へ命中する未来を指先に掴みながら同時に血を待ち構える強張った姿勢で、エルモは矢を放てないままでいる。小市民が実現へ踏み出すとすれば、それは一斉に、確実な的へ放つ時。何が違う、リヨンのように自ら果敢に手放した矢と、俺たちのように言いくるめられて放された矢の、何が違う。市民一人に眠る自由意志が、あの革命家達の振る指に敵わないのはなぜだ。

 女王が、あの勇敢を備えた女王が、心の中からも去ってしまったようにエルモは感じた。あの小馬鹿が毎日飽きずに続ける積み重ねの方が、今のエルモにはよほど夢のように思われた。だからこそ、女王の溌剌が遠のく、夢のように実存のない、雲のような姿をしてエルモの手を離れていってしまった。

 

「おい、おっさん。さぼってんじゃねえ」

 ぶっきらぼうな声にエルモが我に返ると、目の前に鞄を抱えたリヨンがいた。アトリエでみた古着のような格好ではなく、学者のように清潔な服装をしていた。

「なんだ、謀反か」

「違やい、お前の報告が頼りないって注文がきたんだ。これから私は城内へ話をしにいく、見本はなし、鞄の中には資料しか入っていない、それだけだ」

「ああ、そうか」

「そうかじゃない、頼りないぞ」

「いや。すまなかった」

「お互い様だ、俺はもう怒っちゃいない、謀反もない」

「…」

「『白騎士』様が進んで歩むならば、某は従うのみ。最後の最後にでも『白騎士』様が笑んでくだされば、それに替わる歓びもない」

 そう言ってリヨンは門へ歩いていった。エルモの見るリヨンの後ろ姿は、いつも小さく見えた。

 

 城の小部屋で役人に一通りの説明をした後、期限を延ばしてやるから完成まで漕ぎ着けろと指示され、リヨンは文句をもごもご言いながら帰りに城の中庭を歩いていた。王城の正門の裏には、砦のような円形の壁に囲まれる庭園があり、いつもはそれほど上等に刈られておらず枝も蔓も伸びるがままであったのが、今日は中央を切る小径を中心にそれらしく切り込まれている。式で用いるのはここだろう、リヨンは内心で恨めしく思いながら壁近くの日陰を歩いた、道ができているわけではないが構わないだろう、どうせ後で踏み荒らされるのさ。

「…しかし、それでも私はこの国で、いつまでも…」

「それ以上言わないでよ、我がままね」

 リヨンのいる近くで女の声がする、城の方へ少し戻ると、入ってすぐの階段を上ったところで女二人が抱き合っているのが見えた。

「ですから、今からでも遅くありません、私はこのまま!」

「だから、いつまでも泣かないで。これ以上面倒をみさせないでよ」

「でも…」

「いい、離れて、真面目なあんたならわかるでしょうけどね、これからするあんたの結婚はそれはそれは大きな希望になるの。国王陛下も国民も祝福するわ、いいじゃない、たくさんの土産を持ってあんたはあの貴族のところへ行けばいい」

「それは、どうしても」

「どうしてもよ、南の国と争いたくなければ」

 リヨンは息を飲む、その音に二人の女は振り返った。

「『白騎士』様…」

「…じゃあね、リーリエ」

 慰めていた女が奥へ去っていく、リーリエは顔を改めた後、階段を下りてリヨンに話しかけた。

「御見苦しいところを見せてしまったようで、すみません」

「随分と慣れた口ぶりでしたね、先程の方は」

「仕事の友達です、家の都合で、頼れる人が少なくて」

 リーリエの伏し目をリヨンは見つめていた、白い肌が擦れて赤い。

「…今日は、跪いたり、しないのですね」

「失礼しました、『白騎士』様」

 言うが早いか、リヨンは見上げる格好で膝をつく。

「いえ、そういうことではなくてですね。それに私の名前は」

「今日も大変麗しくあらせられる、無礼ながら、この偶然に胸が一杯です」

「ですからね、そうして欲しいわけでは」

「『白騎士』様、謹んで申し上げたく存じます」

「…なにかしら」

「ご結婚されるのですね」

「そうよ、モーリッツと言う素敵な男性と、早い話で困ったわ」

「…ご満足、されていますか」

「ええ、それに、多くの方が見守って下さるとわかって、感謝しているくらいですよ」

「そうですか」

 リヨンは顔を下げる、そのまま、立ち尽くすリーリエもしばらく黙ってしまう。

 それから、ようやくリヨンが口を開く。

「それでは、『白騎士』様」

「なにかしら」

「ご結婚の暁には、私はどちらへ御仕え致せばよろしいですか」

「なに、どちら?」

「私はどちらで『白騎士』様に御仕えし、跪き、頭を垂れ、誓った忠誠の下に御靴を」

「待って、そんなつもりでいたの?」

「もちろんです。私の忠誠は永劫、火に焼べられようと、海に沈もうと変わる事はないのです。『白騎士』様に仕え続ける事こそ不肖私の歓び、希望であるのです」

「私、結婚するのよ?」

「構う事はありません、そも私は自らの心に溢れる思いから忠誠を誓いました。『白騎士』様がお許しになるならば、鎧も馬もなしで決闘に勝利しましょう、いえ、空さえ飛んでみせます!」

「時々飛んでると教会から聞いていますが、でも」

「…は」

「どうしたの?」

「つまりお許しにならないと、これ以上私が御仕えするのを御許しにならないという事ですね!ああ、何という悲しみ、何という苦しみ!『白騎士』様から拒まれることは私の最大の痛みです、しかしそうだと仰るならば仕方がありません、遠く北の祖国から、見守る事だけでも御許しいただけませんか」

「…本当に騎士の様ね、素直な方だとばかり思っていましたが、芸があるのは素敵です」

「身に余るお言葉」

「それに、知っているのね。あの方が、何者か」

「…失礼致しました」

「いいえ、そうなの、私は帝国へもらわれるわ。惜しいわね、リヨン、あなたと会えなくなるのは」

「やはり、御許しにならないと」

「そうじゃないは、仕方が無いの、どうしても…」

「つまり、御許しにならないのですね」

 押し切るリヨンに、リーリエは微笑む。

「…ええ、そうね。残念だけど」

「それならば仕方ありません」

「仕方がないわ、これまでの忠義、大変ご苦労でした」

「身に余るお言葉です」

「楽しかったわ、本気よ。あなたのような人、この世には二人といないわ」

「…」

「じゃあ、さようなら、リヨン」

 リーリエは階段を上って行く、リヨンは膝をついたまま、見上げた。

「さようなら、『白騎士』様」

 

 

 その日の夜、リヨンはアトリエで彫刻をしていた。仕事の終わったエルモに酒に誘われたが断っていた、エルモの方もしつこく尋ねなかったので、そのまま手につく作業を始めた。

 彫刻は一度として取り返しのつかない作業を、何度も何度も繰り返す。リヨンは水に沈んだような静寂のうちに、身体がその流れの一つになっていくのを止めなかった。リヨンの強い自意識はその裏でふつふつと泡を立て始めていた、許されるがままの無抵抗がリヨンの最も憎む不自由だった、思うがままに従う身体が、得体の知れない無機の正義に縛られることが、リヨンはもっとも癪だった。リヨンは彫刻を続ける、心に熱をたたえたまま、取り返しのつかない一つずつを繰り返した。

 ふと、ドアが叩かれる。リヨンは手を止めてドアを開けた。

「ごめんください」

「…あんたは」

「噂の、リヨンさん」

「明日は朝早いだろうに、何の用だ」

「いいえ、あなたも早いのです。あなたの腕を見込んで、お話があります」

 

 

 結婚式の段取りはこうだ。

 化粧と正装を済ませたリーリエとモーリッツが教会で式を済ませる、その後、広場から教会前の大通り、正門前の中央通りを城まで二人が歩き、正門を通って中庭で再度祝福を行う。それを終えると一度閉じた門を開け、市民に挨拶をし城内へ撤収。城内とその近くは城に勤める兵士が護衛を行うが、教会の周囲や道なりの整備はエルモ達の仕事であった。しかし珍しいものを見たい、そんな同僚達の流れでエルモは教会付近の警護を担当する。エルモは移動が終わるまで持ち場で待機し、城での祝福がされている間に中央通りへ移動、市民の整備を行う。

 思えばどうしてこれほどまでに派手な式にしたいのか、帝国に派手な真似をして後ろめたくないぞと示すためだろうか。たまたま晴天だからよかったものの、天候が崩れればなにもかも台無しだろうに。巷ではついにあのおてんば女王が痺れを切らしたのだと言い回されているが、リヨンの話を聞いていたエルモにとっては仄暗い気分になる話だ。そして女王の名前を聞くだけで、政略結婚と知りながら最後まで見届けようとしている自分の、愚かしさに迷ってしまうのだった。

 リヨンはどうしているだろうか、愛しの『白騎士』をどう見送るつもりだろう。気分屋と言ってあてはまる性格だろうが、こと自称の忠誠に関しては恥ずかしいほどに一途だ。何か騒ぎを起こして、二度とまみえなくなるような事態にさえならなければ、とエルモは祈った。

 

 大時計が十一時を指すと国教会の大扉が開き、陰の中から衛兵とともに新郎新婦が現れる。モーリッツは無作法のくせに正装がきまっている、一方のリーリエは、なるほど、それだけ美しい女ならばあの男でなくとも、一目で惚れてもおかしくはないと頷かされるほどに、淑やかで綺麗だ、純白の衣装は彼女によく似合う。二人は腕を組んで歩みを揃え、拍手の中に降りてきた、教会の鐘が鳴り続ける、かき消されない「おめでとう」の声にモーリッツは顔を向けて応じる、伏し目のリーリエは時々顔を上げて笑い、薄い唇が「ありがとう」と動いている。

 浮き足立つ信徒らを防ぎながら、エルモはその姿を遠くに見ていた。リヨンは結局見当たらなかった、アトリエの表まで見に行ったものの不在、祝いの声も冷めぬままに始まった城への行進の観覧の中にも、それらしい姿はなかった。まあどこかに混ざって、おとなしくしているならそれでいい、今日くらい自分の文句を聞かずに、花を添えて清廉に歩む彼女の姿を眺めていたいだろう。

 

 行進が終わった、二人が正門の中へ進んでいくのを追う観衆に押されてエルモも中央通り近くまで流されていた。もうそろそろで正午を回り、城内での祝福の後、市民は最後の挨拶を受ける。

「おっさん、おい、エルモ」

 突然エルモの方が叩かれる、振り返るとリヨンが明るい顔をしてそこにいた。昨日と同じような格好の上にフード付きの長いコートを着ている。

「お前、どこに行ってたんだ」

「なんだ、探してたのか?好きだなあ俺の事」

「違う、もう行進は終わった、『白騎士』の一生に一度きりの姿だぞ、見なくてよかったのか」

「いいわけあるか、私の心は既に…」

「やめろ、騒ぐな」

「別の用事があったんだよう、これでも頑張ってきたんだ、労え」

「しばらくしたら門が開く、近くへ見に行ったらいい」

「お前はどうする」

「俺は仕事中だし一緒にいく筋合いもない」

「真面目だね…」

 そう言い残してリヨンは人混みへ消えていった。後ろ姿は先日より躍っている、その不可解な機嫌はなんだったのか、エルモには心当たりがなかった。

 

 結局群衆に連れられてエルモは城壁近くまで来てしまった、それでも行儀のいい信徒がいるからか、手薄になった通りの向こうの端まで大きく人波が開いている。みな新郎新婦を見たい、あわよくば、その奥にいるかもしれない女王が覗けるかもしれない。先程一度開かれたときにも、見えたか、いるのかいないのかと観衆は騒いでいた。エルモは壁の上に翻る国旗を見上げ、城壁の向こう側にいるはずの女王へ褪せた思いを馳せる、この結婚がいかなるものかを、その姿で教えてもらいたいものだ。

 城壁の中から鎖が巻かれる音がし始めた、いよいよ城門が開かれる。重く軋みながら両開きの扉が動き出す、その向こうの明るみがわずかに、鳴り出す拍手と共に大きく、開いてゆく。

 新郎新婦は腕を組み、喝采の渦の中へと進みだす。兵士がその両脇につき、その奥には城内の庭園が見えた。壁の内側には宰相と思わしき人々が、歓びだけでない、苦悩を交えた顔をして手を打っている。その中に…女王らしき人影は見えるだろうか。

 新郎新婦は城壁の影を抜け出し、左右に並ぶ民衆へ手を振っている。割れんばかりの拍手と、庁舎などから降る花吹雪に、民主の意気は最高潮を迎えた。

 

 そこへ、ざわめきが混ざる。

 エルモのいる城壁近くから東へ、人々の並ぶ向こうから、沈黙が伝ってきた。

 喝采の止まぬ城下を遠くに、遥か、目がかすむ向こうに小さな人影がある。通りの中央に立つその姿の周囲が退いてゆく、顔をフードで隠したその小柄な影は、そよぐコートの中から長い銃を突き出していた。

 太陽を反射する一つ目を、新郎モーリッツが見つけた。

 リヨンだ。

 

 銃声。

 

 拍手一つほどのわずかな銃声を、全員が聞いた。沈黙し頭を低める民衆の中心で、足のすくんだ兵士をよそに新郎新婦は立ったままだった。

 自らの胸を抱くリーリエの肩を、背中のモーリッツが大きな手で掴んでいる。

 その顔がほくそ笑むのを、エルモは見た。

 

 轟音。

 

 前触れのない轟音が、今度は王城から響く。その途端、居竦んでいた大衆が悲鳴とともに一気に動き出した。エルモはリーリエ達に近づこうとするが、城内からも人並みが溢れるためうまく進めない。

「捕らえろ、撃て!」

 人混みに揉まれながらもモーリッツが怒声を飛ばす、しかし城壁の上や庁舎に控えた兵士は撃たない。リヨンは遠すぎる、その上混乱した民衆が至る所で交差している、見る間にリヨンはどこからともなく現れた馬にひらりと跨がり、東へと逃亡した。

「奴は教会へ行ったはずだ、追え!殺すな、縛捕しろ!」

 モーリッツの声に射撃兵達が駆けてゆく。エルモは狙われた二人のもとへ近づく、すると、モーリッツの脇に抱えられるようにしているリーリエが、締まる腕の中で目を丸くしていた。

 当たっていない、他の誰かへ逸れたか。しかしエルモが来た方へ振り返っても、脱ぎ捨てられた靴やはぐれた子供が見えるばかりでけが人はいない。では運良く建物に当たったのか。

「…陛下?」

 東へずんずんと進むモーリッツと衛兵の一団の中で、後ろを向いたリーリエが呟く。王城からの爆発音、それを示すように、城壁の向こうで黒煙がたなびいた。

「陛下!」

 叫び、モーリッツの腕から抜け出したリーリエは衛兵の間を抜けて城へ走った。

「おい、お前ら、捕まえておけ」

 それを見たモーリッツから、今度はエルモの方へ声が飛ぶ、疑いながらエルモは数人とともにリーリエを追った。

 

 王城を臨み、リーリエは膝をついた。城郭の高い一角が火を吹き、すでに真っ黒になっていた。エルモと来た数人は城内に残る給仕らの避難を手伝いに行き、エルモは彼女の傍に残された。

「陛下が、ああ、そんな…」

 爆破されたあの部屋は、おそらく女王の間であろう。エルモは茫然として見上げるばかりであった、いつの間にか、城壁の上に立つ旗は帝国のものに変わり、さも当然といった風にはためいている。

 リヨンは殺されたか、いや、逃げていてくれ、エルモは祈りながら東を振り向いた。

 大観衆はすっかり散り散りになって住居へ消えた、閑散としたその奥に、エルモは見つけた。

 教会の尖塔、大時計のすぐ横を、白い鳥のような何かがゆっくりと飛んで行く。風に従って南へ、巨大な翼を時々落ち込ませながら進む、その舳先には風車が回る。おそらくその身体の中にリヨンをしまって、あれは飛んでゆくのだ。

 あの馬鹿は、ついに飛んだが、その初飛行は極刑ものの罪から逃れるためと相成った。リヨンの機嫌の良さはそのためだったのだろう、きっと朝までに教会の影へあの装置を潜ませておいたのだ。『白騎士』を奪ったモーリッツを討ち、空へ逃げる、その謀略は失敗に終わったものの、リヨンは、きっと満足だろう。

 

 

 では、この爆発は?

 

 疑った途端に、今も異変が続いているとエルモは知らされた。見上げた東の空に進む空飛ぶ舟の揺れはだんだんと大きくなる、沈黙していたはずの地上からわずかに、けれども数多くの、銃声が届いた。初めはわずかに傾く、しかし段々とその頭を落として行き、まだ街をいくつも越えなければならない途中で、ついに舟は転覆した。エルモの脳裏に、かつて見た風車と、大きく張られた翼が穴だらけになって映された。そして、リヨンも。

「あの馬鹿が…」

 

 座り込んだ花嫁の傍にエルモは立ち尽くしていた、東に、帰ってくる小さな一団が見える。モーリッツだ。自国の兵を伴い大股で歩いてくる、その前にエルモは取り残された。

「その女を捕らえろ!」

 ごうごうと唸るモーリッツの声は、エルモに向けられた。リーリエは変わらず涙を流している、そこへ、モーリッツは問いつめるように繰り返した。

「その女を、捕らえろ!」

 視界の端でリーリエが動くのが見えた。立ち上がったリーリエが、目を腫らして、歩いていく。

「陛下…」

 リーリエの細い声が聞こえた、エルモは朧な女王の勇姿を思う。遠い過去、夢になったその影に、穴の空いたリヨンの姿が重なった。エルモは、リーリエの前に立ちふさる。

「だめだ」

「…いいえ」

「あの馬鹿のためだ、行かないでくれ」

「いいえ、私は、もう。この国で終われるのなら」

「だめだ!リヨンのためなんだ、あれが馬鹿でも、悪党でも、あいつのためなんだ。あんたが行ってはいけない。リヨンがあんたに捧げたものを、侮辱しないでくれ。あんたが行っては、だめなんだ」

 もうわずかに迫るモーリッツをエルモは背にし続けた、リーリエをここで引き止めても、何もならないことはわかっていたが、一度動いたエルモの身体は止まらなかった。リヨンが『白騎士』に誓った忠誠を、有人飛行の夢と命をかけて、果たせずに終わったリヨンの空言を、守らなければならない。

「そこまでだ」

 荒い声とともにエルモの身体は強く引っ張られる。兵二人がエルモを捕らえ、その身体をモーリッツの前に差し出した。膝をつかされ、あたかも磔のように腕を広げられたリヨンとリーリエの間にモーリッツが入り込み、その手でリーリエを強引に転ばせた。

「止めろ!」

「そこまでだと言った、暴れるでない」

「モーリッツ!お前は、陛下を…」

 喚くエルモの顔をモーリッツが殴りつけた。

「政略結婚に、飽き足らず陛下まで、陛下までも討ち、あの馬鹿も殺した!」

「何を言っているかわからんね、私は被害者だろう」

「黙れ!お前が帝国の、人間だってのは割れている。帝国から北を、奪いに来た、悪魔だ!」

「いいや違う、私は南から来たただの貴族だ」

 モーリッツはエルモと対面し、他の数人を下がらせ後ろを向かせた。

「ただ、まあこの娘をもらって、ちょっとした地位を手に入れたところで、この身を危険にさらすにしては報酬が足りんだろう」

「報酬…」

「いかにも、私には南へ帰ってしなければならないことが数多くある。この縁談の面倒を、骨が折れるまで見させられるというに、その報酬が少ないのだ。だから私は何をした、ちっとも顔を出さぬ女王陛下へ、つい先程までよく眠れるようにと酒を贈ったまでだ。まさか偶然が重なるとは、全く、恐ろしいな」

「白々しい!」

「そうかね」

 モーリッツは続けてエルモを蹴りつける、男に二人掛かりで抑えられては身動きが取れない、エルモは為されるがままに殴打をくらった。

「あの得体の知れぬ愚か者のおかげで、私は南へ胸を張って帰れそうだ。式場に現れた粗暴な者を諌めたところ、なんと北の女王陛下が巻き添えとなり、しかし南へ帰らなければならない私は心を痛めながらも、混乱したこの国を侵すことと相成った、と。

 南はもう煮え切っているのだよ、私も不服なのだ、ついこの間まで頭を下げていた北の女王が、今では子をあやすような目で南を見ている。我が国を侮るな、敗者が顔をあげてはならない」

 ぼろぼろになったエルモへ、モーリッツは最後に拳を振りかぶった。

 

 が、その拳は届かない。

 モーリッツの背中へ蹴りを食らわせた男が、エルモの前に転がっていた。

「モーリッツ卿!今のは自業自得っていうんだ!」

 言うが早いか、リヨンはエルモの左腕を掴む兵の膝を倒れたまま蹴り飛ばした。見ればすぐ近くに倒れていたはずのリーリエが、城門の前で馬に乗せられている。リヨンはあれで現れたのか。

「逃げんぞ!」

 片手を解放されたエルモは、言われるがままに束縛を振りほどき立ち上がる。

「お前、馬鹿か、俺は逃げても無意味だ」

「無意味なものか、手違いなんだよ、とにかく…」

「何を呆けている!捕らえろ、女だ!」

 無様に転がったままのモーリッツが叫んだ、律儀に振り向かないままだった兵士らは、倒れた三人の男を確認するや、走り出したリヨンとエルモを追った。逃げるなら間に合うかもしれない、けれど。

「馬に三人は乗れない!」

「うるさい!もう遅いだろうが、走れ!」

「もう駄目だ、見えるか、帝国の旗が、あんなに」

「そんなのは大丈夫だ、駄目なのは後ろに来てるあいつらだ!」

「無理だ、二人で逃げろ!あの女も捕まる!」

 そうエルモが言うと、リヨンは足を止めて、言い放つ。

「『白騎士』様、御逃げください!」

「違う、お前も逃げるんだ!」

「やだね、怪我人を放っておけるかい」

「自分がどんな状況かわかってるのか、リヨン!」

「肩書きに理屈をつけて口をつぐむような奴は、男として最低、そうだろうが」

 リヨンは拳を構えて言った。エルモは、腫れた顔でその横顔を睨んだ。

 

 エルモはリヨンの身体を抱えるように掴み、城門へ突進した。

「おおっ、おい馬鹿、やめろ!」

 エルモは勢いをつけたまま、リーリエの乗る馬の上へリヨンを押し込んだ。

「行け!」

「行くな、行きません『白騎士』様、降ります!エルモ!」

 エルモが腰をひっぱたくと、馬は嘶き、二人を乗せて走り出した。

「俺は兵士だ、頼む。お前を止め、お前を守るのが仕事だ、リヨン」

「馬鹿か、お前はわかってない、エルモ!」

 膝をついたエルモは兵士らに捕まり、走ってきた距離を戻されて行く。狭くなった視界の隅に、城門からこちらへ走る北の国の兵達が見えたところで、エルモは気を失った。

 

 

 城壁を伝うように西へ抜け、二人は王都から遠くの開けた平地まで来ていた。更に西には小さな山脈がそびえる、馬を操るリーリエは眩しそうにそれを眺めた。リヨンは街を抜けたところで馬から降り、リーリエから少し遅れて歩いた。

 その二人へ合流する者がいた、フード付きのコートを着て馬を駆るその人物が、歩みを止めた二人へ近づく。

「なんとか、うまくいったわね。ご苦労様」

「手違いだ、手違いがあってエルモがたこ殴りだ」

「悪かったわよ、でも協力者なんているわけがないわ」

「ふん」

 顔を隠したその女は馬を下り、手綱をリヨンに差し出した。

「乗っていって、迎えは頼んであるから、それにこれも」

 女は鞍に帯で縛られた木箱を軽く叩く。

「恩に着る、僕はもうへとへとだ、友人を助けてくれたらもっと恩に着るなあ」

「わかってるわよ、もう片はついてる」

「…あなたは」

「あらリーリエ、結婚おめでとう、二人で仲良くね」

「待って!どうして、このようなことに」

「今にわかるわよ、それに、羽を伸ばしたくってもう生えそうだったの」

 リーリエはその女へ赤い顔を向ける、リヨンはそちらへは知らん顔をした。

「羽と言えばだな、またちゃんと実験をさせろよ」

「ごめんね、全部やり直しにさせちゃって」

「構わない、僕こそ貴重な経験をした、もうこりごりだね」

 言ってリヨンは渡された馬へ寄っていく。

「ごめんなさい、私は、なにも知らずに」

「いいのよ、痛い思いをしたのは誰もかれもよ」

「けれど、私は今も…」

「慎め、リーリエ。余はもう貴様の面倒を見るつもりはない」

 女は声色を戻して言う。

「我が国は多士済々、信と忠の城。あれしきでこの名は忘れられんよ」

 言う女の背中に、馬を駆る軽装の兵士が小さく見える。

「これはあんたにやろう」

 リヨンは帯を解いた木箱を女に押し付け、そのまま馬によじ上った。

「土産、だ」

「あら、よく覚えてるわね」

「それに、期待の前払いだ」

 別れを惜しむリーリエを西へ導きながら、リヨンは女を振り返る。

「僕なりの忠誠をそれに換えよう、新しい時代をあなたに託す」

「そう、頼まれちゃったわ、ありがとう」

「どうか、私の友に優しい革命を」

 

「陛下」

 

 

「結局なにもかも、陛下の掌の上か」

「リヨンと替わった女王が通りに現れ、空砲を撃つ。城へ潜まされたリヨンは女王の部屋の爆破と、国旗の入れ替えをする。女王は教会へ逃げ、リヨンの飛ぶ装置に乗って逃げるかに見せたが全くの囮、無人飛行をしたあれは射撃兵によって落とされるが、女王は北へそのまま逃走。一方のリヨンは城の馬を拝借してリーリエを奪取、これまた逃走」

「モーリッツはかなり誘導されて酒を仕込んだらしいが、まあそこに火を点けようってのは確かにあくどかったな」

「それはそうだが、女王の趣味も悪い。わざわざ爆破だなんて派手な」

「それに飛びたいからって身代わりになって、あげく苦心の作を壊すはめに」

「リヨンには兵隊の中であれやこれやと走り回らせ、全く我がままな真似を」

「するだろうな」

「だろうな」

 リヨンは怪我の療養とかこつけて酒場に来ていた。多少酔って話しているからか、店主を相手にしても同じ話の繰り返しになりがちであった。

「まったくひどいもんだ、なんで俺が、俺が」

「手違いだったんだろ。城に入った兵士に役人と思われちまって、その後に顔を知ってる奴に捕まって。それから馬の調達までよくやったと思うがね」

「まあそのおかげで昇進だがな、『白騎士』様のおかげってもんだ」

「はあ、都合のいいこった」

「それに引き換え、あんたは何をしたんだって?」

「陛下の乗る馬を店ん中に隠してた」

「まあ、それこそ都合が良いと思ったらそう言うことかい。怪我なし、恥なし、得な役だ」

「得なもんか、王都中騒いでるってのに馬をなだめてなきゃなんねえ俺の気持を考えろ。それに臭いが残って掃除が大変だった、金の損だ」

「よく言うやい」

 

「モーリッツは本当に災難だったな」

「ああ、先のヴァンゼルト伯爵みたいな顔になっちまって。それもそうだが扱いがひどいよなあ、帝国にはついでで俺を殴るような心の寒い奴しか居ないのかね」

「それならそうでいいだろう、あんだけやって全部モーリッツのせいにして。帝国と良好な関係を結びたかったのに台無しだ、お前らはただじゃおかねえ、なんて啖呵切っといて結局戦争にはならなかったんだからな」

「賠償金、身柄の引き渡し、国交の一時停止、以上」

「モーリッツを選んだのが良かったのか悪かったのか」

「評判が悪過ぎんだよ、あの男」

 

「リヨンからの手紙の話を聞かせろよ」

「驚く事ばかりだったさ、まあまず字が汚い」

「内容だ」

「『白騎士』、あの花嫁の話なんだがな」

「まずはそれだな」

「そう、なんとあれはヴァンゼルト伯爵の娘っ子らしい」

「運命の巡り合わせ、か」

「そうとも言えん、女王は自分を困らせた者を使って場を作った、つまりこれも女王の手のうちだ。ヴァンゼルトは偽ヒルデガルダを処刑した後、自分の子に簒奪をさせるつもりだった。ところが自分の子にはその娘しかいない。適当に養子でももらってさっさと傀儡にできれば良かったものの、奴は事態を急いだためにあろうことか娘を男装させてしまえと思いついた。そこで処刑されてしまう、当然その家の者も憂き目をみることになるが、そこにいるのはあの美人のくせに男のふりを教えられた小さな小さなリーリエだ。面白がった女王は身を切ってその世話を買ってでる」

「そこまでするかね」

「世話と言っても給仕に混ぜられたり事務を教えられたりで、没落ですんだ家族を養うつもりで働けと言われさえしたそうだ。思いのほか優秀なリーリエはどんどんできる奴になってゆく、見た目も好いままだ、が、歳をとるにつれ困った事ができた」

「というのは」

「男装を止めたもののリーリエの趣味はおかしな事になっていた。兵がどうとか、騎士がどうとかという中に大事なのがひとつ、なんとリーリエはヒルデガルダ女王に本気で惚れていた」

「ほお、それで」

「大人になっても懐かれているのはいいが女王としてはそう言うつもりじゃない、どうせ見た目がいいのだから適当に結婚を済ませるだろうと踏んでいたがそうもいかない。もはや自分から引き離す事を目的とした女王は帝国へ縁談をもらいに行く、その末がこれだ、リーリエは『白騎士』になり、帝国は泡を吹く」

「それほどではないがな」

「全く、おかしなことが多い。今が暇でならんさ」

 

 店主は好きなときに帰れと言い残して奥へ引っ込んでしまった。灯りの消えた店内で、酔ったエルモは酒で小さな渦を作る、その奥を見つめた。勇敢な女王の夢想、憧れの夢想、矮小な市民の秘めた夢想。結局小市民は自由意志などこれっぽっちも持てないのだ、俺たちは飲まれるままに従い、流れるままに思う、心の中に何を綴じても実現できなければ夢の内。大容積をもって流れる人波の中、誰もがその上に舟を浮かべようと憧れる、けれども市民は舵も帆も持たず、腕も眼もない。そこへたまたま冴えた才能を持った者が躍り出ると、俺たちは勘違いする、あれこそが俺たちの舟、俺の舟だと夢見る。夢は憧れ、憧れは恋、恋は忠誠、理想。それを失った途端に、誰もがその欠落に気付く、初めから舟なんて

ないのだ、そこにあったのは小さな飛沫の影。初めから見えぬものに、惑う。

 この世に、エルモが憧れた革命はない。あるのは津波と渦、そして夢のような舟。津波にも負けず、渦潮にも負けない強固な舟は存在する、それを運ぶのは他でもない小さな意志だと、エルモは感じていた。結局俺は衛兵でいるだけできりきり舞いだったが、エルモは笑う、これで十分手に収まるもんだ。

 それに今はもう一つ、だ。エルモは目を閉じる、リヨンの手紙にはいつかまた北へ行くときがあればと記されていた。あの大馬鹿者をいつの日にか迎えるとするならば、備えても備えきれないだろう、しかし、死ぬまでにもう一度だけでも、会わなければならないとエルモは心に決めていた。

 

 

「ごめんください」

「ああ、店はやってないよ」

「口の利き方がなってないな」

「なに?」

「誰のおかげで国が建っていると心得る」

「何様だ、騒ぐな」

「余の顔を忘れたとは、言わせないぞ」

「そうだな」

「そうとも」

                                                             (了)

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