ヒルデガルダの箱              n.n.





プロローグ



関空からローマまで十三時間のフライト。そこから乗り継いでさらに二時間ほど空を飛び、ようやく着いたのは現地時刻で午後五時を過ぎていた。

日本よりも北に位置し、高い山が近くにある地形の関係もあってか、肌寒い。薄いコートでは不十分だったかもしれないと早くも後悔が頭をよぎる。周囲を見渡すと、分厚いコートに身を包んだ人も多い。この国では、かつては飢饉が多発したことが実感を持って伺えた。

空港から地味な色の電車に乗り換え、ホテルへ向かう。電車の窓ガラス越しに見える街並みは、歴史を感じさせる石造りの建物だ。ただ、景観保全が完全には行き届いておらず、時々けばけばしい配色の看板が目を引く。所々に見える畑では、やはり馬鈴薯を栽培しているのだろうか。

この国の中心部である国教会前広場駅で降りると、寒空を夕焼けが照らし、教会の尖塔が広場に長い影を投げかけていた。

重いキャリーバッグが石畳にガラガラと引っかかる。女子大生が一人で来るのは無理があったかと心細い想いが頭をよぎりながら、ホテルに向かう。

幸い予約していた宿は無事に見つかり、ともかくチェックインできた。さっそく荷物の中から一冊の本を取り出す。ハードカバーで四百頁以上もある分厚い本だ。必要な部分だけコピーして持ってこようかと思ったが、私がここに来ることになった発端の本であるから、本ごと持ってきたかったのだ。中世ヨーロッパを扱った歴史書なのだが、大学一回生の夏に初めてこの本に出会い、ある国のある女王のことを知った。

付箋を張った箇所を開く。

「蒼穹の元、赤茶けた大地に展開した一万を超える帝国軍は獅子を象った軍装に身を包み、日光を反射させた剣が並ぶ様は、巨大な獣が牙を剥き出したようだった。対する女王の軍はわずか一千ばかり。それも寄せ集めの不慣れな兵で装備も貧弱なものだった。だが、若き女王は凛として軍を指揮する。飢饉から国を救った奇跡を起こした女王は、再びこの国難に立ち向かおうとしている。女王の頂きに乗る冠には、王家の紋章たる四枚の翼を持つ鷲の姿が、燦然と輝いていた。」

これが、若き女王が出陣した際の描写だ。二人の兄王が相次いで世を去ったため、若き彼女が王位に着いた。飢饉を乗り越え、南部と北部の対立を収め、帝国との戦いに挑んだ女王。

とても凡人では成し得ない偉業に十八歳だった私は心を奪われた。その想いは今でも変わらず、この地に私を連れてこさせた。

「着いた。着いたんだ」

口に出して言うと、ようやく実感が湧き上がる。

ここがスラヴェニア。

ヒルデガルダの国。




第一章



ホテルは広場に面しているので、窓を開けると一望できた。スラヴェニアで最も大きな広場である国教会前広場。

それはヒルデガルダの時代から今に至るまで変わらない。教会の鐘が一日の終わりを告げるために高らかに鳴り響いた。ヒルデガルダもこれを聴いていたのだと思うと感慨深い。

今から二百年以上前、この広場でヒルデガルダは処刑され、そうになった。本でそれを知った私は手に汗握った。

少し休憩してから、夕食をとるために外出する。スラヴェニアはそれほど日本人観光客が訪れる国ではないため、緊張する。事前にネットで下調べした店の位置は頭に入っているが、実際に歩くとあたふたする。けれど十分ほどで無事に目当ての店に行き着いた。一人で入るのには勇気がいるが、ここで引き返しては何にもならないため、意を決して木製のドアを開ける。

中は百人でも入れそうなほど広く、熱気に溢れていた。柱や梁が多いものの、巨大なホールのようになっていて開放感がある。圧倒されたのは、壁面に掛かる巨大な肖像画だ。

縦横三メートル以上はあろうかというキャンパスに描かれた男性は、皇帝を思わせる威容だ。が、これは皇帝でも国王でも教皇でもなく、この店の昔の主人で、ジョルジオという人物だ(と、これはネットで事前に仕入れた情報)。

ジョルジオは右手にワインを、左手には見るからに美味しそうな料理が載った皿を持っている。

かつて、ヒルデガルダが通いつめたと言われる店がここで、ジョルジオとは親しい仲だったという。ヒルデガルダの目当てだったという「煮込みフリカデレ」は今でも人気メニューだ。

女王の行きつけの店として大繁盛したお礼にヒルデガルダ女王の肖像画を掲げるのではなく、自分の肖像画を掲げたあたり、ジョルジオらしい。彼は憎めない人柄だったようだ。現在の店主は、ジョルジオの子孫に当たるという。

壁際のテーブル席に案内され、メニューを見ていると、綺麗な女性に話しかけられた。私より少し年上だろうか、外国人なので年齢がパッと分からないが、彼女も一人で来ているようだ。
相席してもいいか、とどうやら尋ねられているらしく、頷く。

旅行客かと思ったが、彼女はこの国の言葉を喋っている。独学で頭に詰め込んだ知識を必死に思い出し、何とか自己紹介すると、彼女はニアという名前で、この近くに住んでいて、たまに店に来るのだということが分かった。彼女のお勧めは、もちろん煮込みフリカデレだ。彼女は料理に合うグリューワインを注文してくれた。これもヒルデガルダが愛した飲み物だ。

午後八時になると、客が皆、店の中央部に注目し始める。そこは舞台のように高くなっていて、ここでショーが行われるのだ。ジョルジオの子孫だろうか、店主らしき人物が前口上を述べる。観光客向けというよりは、地元の人々が楽しむ面が強いため、早口で訛りが強くて、なかなか聞き取れない。

舞台の中央に置かれたのは、木製の枠で、半円状に穴が空いている。処刑台だ。

体格の良い男が小柄な女性を連れて現れる。男は処刑人で、頭から布袋をかぶっていて表情が分からない。女性はヒルデガルダ女王をおびき寄せるために処刑されそうになっている。目隠しをされ、逃げられないよう処刑人にがっしりと抑えられている。もう一人現れた男は、黒い服を来て偉そうにしており、これがヴァンゼルト伯爵であろう。伯爵が懐から書類を取り出し、女王の罪名を告げる。いよいよ処刑が始まるのだ。

無実の罪を着せられて殺されそうになっている女性は、見ていて悲痛で、本当に殺されるような気がした。

史実では射撃銃が使われたようだが、処刑人が取り出したのは巨大な斧だった。女性が頭を処刑台に置く。処刑人が斧を頭上に振り上げる。作り物とは思えない無骨で重量感のあるそれを見て、私は血の気が引くのを感じた。

すがる想いでニアを見つめると、毅然とした表情の彼女はにっこり笑って、さっと立ち上がると、次の瞬間、猛スピードで舞台に向かい、長いスカートをものともせず舞台にひらりと躍り上がると、処刑人に強烈な回し蹴りをお見舞いした。

私はあんぐりと口を開けた。

周囲の客は、待ってましたと言わんばかりに声援を送る。

ニアは斧を奪うと、ヴァンゼルト伯爵に朗々たる声で告げる。難しくて聞き取れなかったが、内容は察せられた。

「そなたが余を快く思っておらぬことはよく存じておる。刀槍をもって余を除かんとする企てが、真にこの国のことを憂い、余の誤りを正さんがための義挙であるとするそなたの言明を、余とて全て否定はせぬ」

ホテルに置いてきたあの本の一節が頭の中に浮かぶ。客の一人かと思っていたが、ニアはこのショーの役者だったのだ。常連客はよく知っているようだが、初めての人間としてはただ驚かされる。

あのときも、ヒルデガルダは広場に集まった民衆の中から、颯爽と現れた。人々の驚きはいかほどだったろうか。少なくともジョルジオは目が飛び出すほど驚いたに違いない。

ニアは、いやヒルデガルダ女王は、処刑人を倒し、女性を救った後、伯爵と対峙する。伯爵は余裕の表情だ。伯爵が何か喋った後、ゆっくりと単語を吐き出すように告げる。これは数字のカウントダウンだ。異国の言語で刻まれる時間は呪文のようで不安になる。

客が一斉にあたりを見回す。みんな何かを探すようにキョロキョロしている。すると、客の中の太ったおばさんが叫び声を上げて天井を指した。

梁の上には狙撃手がいた。狙撃手が引き金を引く。乾いた音がして、ヒルデガルダは間一髪でそれをかわすと、ワインの瓶を狙撃手に投げつける。瓶が当たった狙撃手は、梁の上から床に落下する(そこにはちょうど、毛布が山積みになっていた)。

観念した様子の伯爵とヒルデガルダの間でさらに会話があった後、先ほどの処刑台に今度は伯爵が首を乗せる。ヒルデガルダは斧を手にすると、思いっきり振り下ろす。伯爵が身の毛のよだつ叫び声を上げたと思うと、伯爵の首がゴロンと落ちた。

今度は私が思わず悲鳴をあげてしまい、隣のテーブルのおじさんが豪快に笑って私の背中をドンドンと叩いて励ましてくれた。単なる手品で、落ちた首は作り物だ。

少なくとも日本では見られないちょっと過激なショーは違う文化の国に来たのだと感じさせてくれた。

こうしてショーは終わり、「ヒルデガルダ万歳!」の歓声があがる。

しばらくすると、ニアがテーブルに戻ってきて、驚かせてごめんなさい、と言った。

ジョルジオは、店によく来るヒルダという女性がヒルデガルダ女王であると、なかなか気づかなかったと知って、なんと間抜けなのだろうと思っていたが、あまり自分も大差ないと身に染みた。

「色々驚かせたお詫びに、煮込みフリカデレをたっぷりサービスするわ」

ニアはそう言って、首に手を当てると、ふざけて舌をベロンと出して笑った。伯爵の首に驚いていたのをバッチリ見られたようだ。

歴史上の人物となった今でも、国民の間にはヒルデガルダの人気が高い。日本ではあまり考えられない現象だ。歴史上の人物で誰が好きですか、という質問に対して、織田信長とかが上位にくるのとは別種のように思える。歴史上の人物というよりはアイドルのように愛されている。もしかしたら、一部の女性が沖田総司を愛するみたいな感覚なのかもしれない。

「あなた、ヒルデガルダ女王に似て綺麗ね」

とニアが言う。お世辞と分かっていても嬉しい。

「どこから来たの?」と言われ、ジャパンと答えると、

「知っているわ。アジアの東」と言われ意外だった。日本人でスラヴェニアの場所を答えられる人がどれだけいるのか。

「ヒルデガルダの箱は買った?」

「いいえ、まだ」

「じゃあ、明日にでも王宮に行くといいわ」

箱は今回の旅の一番の目的であるので、明日さっそく行くつもりだ。ニアは仕事があるからとテーブルを去った。透き通った肌をして、悪戯っ子のように笑う彼女は、自分が男だったらきっと惚れているだろう。

煮込みフリカデレとグリューワインを存分に味わった後、ホテルに戻る。ベッドに寝転がると疲れが出てきた。

シャワーを浴びたいが、お湯はしっかり出るだろうか。学生の身分で旅費を節約するため、質素なホテルにしたが、予想以上に質素というか、貧相なホテルだった。だが、この国ではこれが当り前だという感じも受ける。

すでに午後十時を過ぎていた。日本では何時だろうか。

今回の旅行は、就職が決まり、単位がとれて卒業も決まって、卒業旅行として来ている、というなら楽しいのだが、現実は違う。

就職が決まらず、大学院に進むことを考えている。その後は、研究者としての道を、進めるのだろうか。

文学部で西洋史学を学んでいると人に言えば、きらびやかなイメージを思い浮かべられたりするが、私は小国スラヴェニアの歴史が専攻だ。

なぜこんな題材を選んだのか。自分でも恥ずかしいが、あえて言うならば、そう、ヒルデガルダ女王に恋をしたからかもしれない。

バッグからレポート用紙の束を取り出し、紙をめくる。

手書きで大きく「ヒルデガルダの箱(仮)」と書かれている。

これが私の研究テーマだ。





第二章



ホテルで簡単に朝食をとった後、王宮に向かう。

広場から出ているバスに十分ほど揺られて着いたそこは、歴代の王の居城であり、ヒルデガルダもまたここで暮らしていた。現在では美術館・博物館として使われていて、王家にまつわる品々を見ることができる。

中は意外に広い。歴代の王の肖像画が並ぶ広間をまず見た後、順番に回っていく。歴代の王の中で、もちろんヒルデガルダが最も有名であり、展示品の多くは、ヒルデガルダにまつわるものだ。

やはり馬鈴薯の栽培・調理に関するものが多い。しかし他にも牧畜や治水、天文学、建築学に関するものもあり、ヒルデガルダの広い視野が伺える。華やかさよりも実用面に重点が置かれていて、よく王宮にあるような宝物の類はほとんどない。

小瓶がたくさん並んでいる箇所があり、香水かと思ってヒルデガルダの女性らしい面を見た気になったが、よく見るとそれは薬品を入れていた瓶だった。ヒルデガルダは医学の面でも優れていたようだ。

それにしても、馬鈴薯を食べさされた当時の人々は、どんな気分だったろうか。馬鈴薯、すなわちじゃがいもは、言うまでもなく今では普通に食べられている。馬鈴薯を食べると死ぬと恐れていた当時の人々を無知だと笑うことは簡単だ。

だが、例えば、テレビ番組でアイドルが嫌々、昆虫を食べるシーンがある。それは食べても安全であり、食べたくないのは精神面の問題だ。だが、それに毒があるとしたらどうか。絶対に食べないだろう。本当に毒があるか、どの部位に毒があるのか、はっきり自分で確認せず、とにかく盲目的に食べるのを避けるだろう。

ヒルデガルダの時代から随分と文明は発展したが、個人はちっとも発展していないと思う。

長い廊下を過ぎると、明るい中庭に出た。

庭はよく手入れがなされている。この中庭に立つヒルデガルダの像は、この国に星の数ほどある像の中で、最も美しいとされている。

ヒルデガルダは若いときの姿で、私よりも少し幼く無邪気な明るさを見せている。けれど、凛々しく堂々とした風格もあり、一つの像でありながら、彼女の両面の魅力を表現した優れた作品だ。

ヒルデガルダは右手を天に向かって伸ばしたポーズだが、その手の中にあるのは、なんと馬鈴薯だ。剣を持っても十分不思議ではないポーズだが、馬鈴薯というところが、いかにもヒルデガルダらしい。軍事面での功績もさることながら、飢饉から国を救ったという点が人々に意識されやすいのかもしれない。

次は地下に降りる。ひんやりとして暗い中に石の棺が並ぶ様は、本当に死後の世界に迷い込んだようだ。そう、ここは王家の墓だ。

が、ヒルデガルダの墓は、ここにはない。ヒルデガルダの最期は非常に謎めいていて、今回の卒論ではそこまで手を広げない。それは恐らく私が一生をかけて追い求めるテーマになるからだ。

一つの時代を生きた人々が、この場所で眠っている。それぞれ差はあれど、後世に語られるべき何かを残したのだ。私は何かやり遂げられるだろうか。

数々の展示を見て回るが、昔と今は何も変わっていないという想いに囚われてくる。人々の怯え、妬み、渇望。その気持ちは何も変わってはいない。

そろそろホームシックになったのか。先ほどから思考が暗い方向にばかり行ってしまう。
時計を見るとランチには少し早いが、気分転換のために食事にすることにした。美術館にカフェが併設されており、そこで「ヒルデガルダ」と伝えるとケーキが出てきた。馬鈴薯で作った伝統的なケーキを「ヒルデガルダ」と呼ぶのだ。人名を伝えるとケーキが出てくるところが面白い。

ケーキの写真を撮って両親やゼミの先生に送ろうかと思ったが、暢気と思われるのも癪なので止めた。

ケーキをお腹に収めた後、いよいよ今回の目当てのものが展示されている部屋に向かう。知らず知らずのうちに心臓が高鳴っていた。

それは、ガラスケースの中に入っていて、幅二十センチ、高さと奥行きが十センチほどの直方体だ。

ヒルデガルダの箱。

もっとも、これはレプリカで、しかも中身も空だ。

箱の外観は、王家の紋章である鷲を象った美しい装飾が施されていて、ヒルデガルダは常にこれを側に置いていたという。

宝石箱のようでもあるが、宰相やお付きの人間がいる前では決してこの箱を開けたことがなく、当時から、箱の中身は謎だったらしい。そして、肝心の実物は、今では行方不明となり、箱の中身は歴史上の謎の一つになっている。

展示の解説に書かれてあるとおり、一般的には、他国の王や国内の有力貴族との書簡などの機密書類を収めていた箱であるとされている。もしかしたら馬鈴薯を使った料理のレシピが入っていたのかもしれません、とも書かれてある。だが本当にそうだろうか? 中身がそういったものであれば宰相にすら見せなかったというのは違和感がある(もっとも宰相をあまり信用してなかったのかもしれないが)。それに、ヒルデガルダは中身をちらりと見せることはおろか、誰かがいる前で、箱の蓋を開けたことすらなかったのだ。これでは単なる書類を収めた箱とは思えない。

この箱の中身を探るのが、今回の研究のテーマだ。

今から半年前、ゼミでヒルデガルダを研究テーマにすると発表したときのことを思い出す。日本ではあまり知名度が高いとは言い難い人物であることを踏まえ、「みなさんはヒルデガルダってご存知ですか」とゼミ生に質問した。

すると、あるゼミ生がぼそりと言った。

「ヒルデガルダ? それって、日本史でいうところの和気清麻呂ぐらいの知名度だよね」

その時は鋭い指摘のような気がしたが、後で腑に落ちない気もした。少なくとも、引き合いに使われた清麻呂さんに謝罪すべきだ。

ヒルデガルダは元々、愚鈍な王と思われていた。

先代と先々代の王、つまりヒルデガルダの兄にあたる人物は失政続きで、国は困窮していた。尤も、けっして豊かとはいえないスラヴェニアのすぐ南には強大な帝国があるという構図では、誰が王であっても困難に直面してしまう。王になるのは火中の栗を拾うのと大差ない状況だった。そんな中で、まだ若いヒルデガルダでは、王は務まらないと最初から思われていた。
そしてヒルデガルダは実際に愚かな振る舞いを見せた。戴冠式では、自分の役割そっちのけで、料理を食べてばかり。臣下に咎められると「腹が減っては、なにもできぬであろう」とケロリと答え、周囲の失笑を買ったと伝えられている。

だがそれはヒルデガルダの計算だった。

当時、国の中で工業が発展して比較的豊かな北部と、農業を中心として比較的貧しい南部とで対立の気配が強く、ヒルデガルダがどちらの立場かを鮮明にするのは危険だった。このため、愚かさを装い、どっちつかずの立場で、とりあえず身の安全を確保したわけだ。

しかし悠長な立場をとっている余裕もなくなってくる。国が飢饉に見舞われたからだ。とりあえず王宮の備蓄庫を開くしかないと進言する臣下に対して、ヒルデガルダは馬鈴薯を用いたケーキでこの難局を乗り切る。これによりヒルデガルダに対する臣下の評判は一変した。

最初から賢い振る舞いをする手もあったかもしれない。だが、いったん愚鈍であると思わせ相手を油断させておいて、あるとき意外性を付くことで、最大限の効果を発揮する。大石内蔵助が昼行灯と呼ばれたり、織田信長がうつけ者と呼ばれていたりしたのと似ているかもしれない。

とりあえず大学に入学したものの、何を学ぶのかはっきり自分ではイメージできていなかった私は、ヒルデガルダを知り、自分の方向性が見えたと思った。

飢饉に苦しむ国。愚かな王と思われていたヒルデガルダ。方向性の見えない私。それがヒルデガルダのケーキによって、国は飢饉から脱出でき、ヒルデガルダは讃えられ、私は進む道が見えた。大げさな言い方をすれば、ヒルデガルダのケーキによって、すべてが救われたのだ。

ただ、方向性がみえたといっても、ヒルデガルダを研究テーマにして、本当にこの先やっていけるのかどうか不安だ。

両親とも暖かく見守ってくれているが、それに甘えていてはいけない。箱の中身について新発見を行い、立派な論文を書いて、大学院に行き、研究者としての道を歩む。これが今回の旅行の目的だ。

ゼミ生との会話を思い出す。私同様、就活に苦戦していた彼女は、ようやく就職先が決まったとして、ある会社名を挙げた。

「それって」

ブラック企業じゃない? という言葉が喉まで出かかって、口をつぐんだ。だが、喉から少し顔を出してしまったようで、彼女は憮然とした表情を見せ、

「だから何?」

と一言だけ吐き捨てるように言った。

いいわね、あなたは院に行けるんでしょ、親がお金出してくるんでしょ、と聞こえた気がした。彼女は母親しかおらず、家計が苦しくて、まず働くことが何より求められていた。

働きたいから就職するわけで、もっと学びたいと思うから大学院に進むわけで、自分の想いに従ってどちらかの道を選べばいいわけであって、だから大学院に行くのは別に逃げでも何でもない。

この理屈は、働かざるを得ない切迫した環境では成立しない。

しかし、私だって安泰な状態でも何でもない。ヒルデガルダの箱の謎を解明しなければ、未来はない。

だが、ふらっと来たこの旅行で、あわよくば新発見しよう、などというのは妄想に近い楽観でしかないことも分かっている。けれど、だからこそ、頑張って研究しなければならない。

堂々巡りする思考。言い訳ばかりな気がする。目の前の展示物がまったく頭に入ってこない。

窓から外を見ると、怪しい曇天だった。傘を持ってきていない。まだ午後三時だが、今日は早めにホテルに戻ろう。風邪をひいては大変だから。

これもまた、言い訳だろうか。

帰るとき、小さな部屋に少女の人形が置かれているのが目に入った。解説が特に書かれておらず、詳細が分からないが、カールした長い金髪で、青い眼が吸い込まれそうなほど綺麗だった。ヒルデガルダもこの人形を愛したのだろうか。

子供のように人形を抱きしめる自分の姿と、屹然と臣下に指示を出すヒルデガルダの姿が、対比的に頭の中に浮かぶ。

ヒルデガルダの強さには、私は到底手が届かない。




第三章



雨音で目を覚ました。異国の雨は冷たい。

なんとなく疲れが出て、今日はゆっくりしたい気分だ。この旅行で行っておきたい場所がもう一箇所あるが、明日でも問題ない。頭が少し痛い気もする。

宿の一階に降りて、朝食をとる。

新聞があったので、あまり読めないが、ざっと目を通す。国際情勢や経済問題を見ると、研究だといって旅行している我が身がお気楽過ぎるように思えてくる。

ある記事が目に留まる。地元の情報を載せたページで、そこには王宮で展示されていた人形が盗難にあったと報じられている。

写真がなくはっきり分からないが、昨日、美術館で最後に見た人形が頭に浮かぶ。王宮美術館の中に人形などいくらでもあるだろうが、気になる。頭が痛い。記事がなかなか読めず、私はスマホを取り出すと、あるアプリを立ち上げ、記事を撮影する。

この国の言葉を日本語に翻訳するという、偶然発見した自動翻訳アプリだが、その信憑性は甚だ疑問なため、今まで使わなかったのだ。
画面に翻訳した日本語が表示されるが、奇妙な文面だった。

「昨日午後です。三時半のこと。盗難でました。美術館で。お人形さん盗まれました。大変です。青い目した人形は大切な宝だろう。警察が考えています。未発見人形の犯人よ、いいか呪われろビール瓶あります」

言葉足らずな翻訳で、最後のビール瓶も意味不明だ。恐らく、日本語の「おめでとう」を「お目が出ている」という意味の英語に訳したような類のことが行われたのだろう。

普段なら笑えるようなものだが、身体の調子が悪い上に、昨日見た人形が頭にちらついて、不安が増しただけだった。

寒気がしたので部屋に戻ることにする。二階に上がり、廊下を歩いていると、廊下の奥の棚に、昨日までなかったはずの人形が置かれていた。全身総毛立つ。

人形を直視せず、すぐに自分の部屋に入る。心臓がまだ激しく鳴っている。気を落ち着かせるために、冷蔵庫から水を取り出す。そのとき、冷蔵庫の中にビール瓶があるのが見えた。こんなもの最初からあっただろうか?

ベッドに寝転んだが、とても寝付けず、思考はヒルデガルダの箱にばかり行ってしまう。

ヒルデガルダは、あの箱を身近に置いていたことから、当然それは重要なものだったはずだ。では、あの時代、何が重要だったのか。機密書類や馬鈴薯のレシピ、国の地図。確かにそういったものも重要だろう。だが、ヒルデガルダは誰かがいる前で、決して箱の蓋を開けたことがなかった。

重要で常に持ち歩くが、使わないもの。

アメリカ大統領の側近は、核ミサイルの発射スイッチが収められた鞄を常に携帯しているという。しかし、あの時代、世界を滅ぼしうるものがあったのか。

黒死病。

王宮で薬品が入っていた瓶がズラリと並ぶのを見た。禍々しい病原菌が入った瓶をイメージしてしまい、頭をブルブルと振った。

嫌な汗をかいたので、シャワーをあびる。

ヒルデガルダの最期は謎に包まれているが、一方、出生の方にも秘密があるのではないかと思っている。いくつものヒルデガルダの肖像画を見ているが、親しみのある顔立ちだ。以前ネットで偶然見つけたヒルデガルダの肖像画とされるものは、こんなことを言うと恥ずかしいが、私自身に似ている気がした。ニアから、ヒルデガルダ女王に似て綺麗と言われた時もそれが頭をよぎった。ただ、ネットで見たその肖像画は、それ以来一度も見ていない。保存せず、ブックマークもしていなかったことを悔やんだ。

ヒルデガルダは実は日本人だった、というのは、チンギスハンは実は源義経だった、というのと同じくらいの眉唾ものだろうか。

さっきから研究というよりは、妄想に近い思考ばかりだ。研究者よりも作家になった方がいいのかもしれないと自嘲してしまう。こんなことで研究ができるのか。

旅行に来てから見てなかったパソコンメールを開く。研究に集中するために開かないようにしていたが、人恋しくなったのかもしれない。

山ほどの迷惑メールをばっさり削除してから、ゼミの先生のメールを開く。先生はもちろん私が旅行に来ていることを知っている。
「初めてのスラヴェニアはどうだい? 煮込みフリカデレとグリューワインはもう食べたかな? 王宮美術館や教会に行くのもいいが、街中をぶらぶら歩くのも色々な発見があっていいと思う。ただし安全には気をつけて。スラヴェニアを満喫してきたらいい。ところで、気になる本があってね。先日刊行されたばかりの本なんだが。今日の帰りにでも買ってまた連絡する」

先生のメールを読むと、なんだかほっとした。駅前の本屋で先生とばったり会うことがよくある。先生は専門書を買い込んでいるが、私はたいてい漫画を手にしているのが恥ずかしい。

今頃先生はコンビニでアイスコーヒーとサンドイッチを買って、ギシギシ言う椅子に座りながら、論文を読んでいるのだろう。いつもの自分を取り戻せた気がして、気持ちが少し楽になり、散歩に出かけることにする。

昔ながらの石畳を歩いていると、ふとその角を曲がれば、ヒルデガルダの時代にタイムスリップしてしまいそうな錯覚すら覚える。

教会の鐘が鳴り響く。

尖塔ははるか高みの空を目指して聳えていて、私はただそれを地べたから見上げるばかりだ。ヒルデガルダは、どうだったのだろう。決して、私みたいに見上げるばかりではなかっただろう。

きっと、王家の紋章たる鷲のように、はるか空の高みから地上を見ていたのだろう。

ホテルに戻ると、人形の盗難事件が解決したとテレビで報じられていた。酒に寄った男が勢いで持っていったらしい。ビール瓶を右手に、人形を左手に、半裸で走る姿が防犯カメラに写っていたという。犯人の男は、飲み屋で綺麗な女性と飲んでいたが、気づいたら部屋に人形があったと供述しているという。

笑ってしまいながら二階に上がる。

廊下の奥の棚に人形があるが、よく見ると男の子の人形だった。気が弱っていると、何でも幽霊に見えてしまう。

部屋に戻ると、音楽プレーヤーをバッグから出す。バタバタしていて、この国に来てから一度も聴けていなかった。

イヤホンを耳に着け、お気に入りの曲を選ぶ。

スラヴェニアの宮廷音楽家が作曲したピアノ曲で、「スラヴェニアの国よ、永遠に」という意味の曲名だ。

この音楽家は、ヒルデガルダより少し前の時代の人物になるから、ヒルデガルダが直接この音楽家の演奏を聞くことはなかったが、この曲を知っている可能性は十分にある。

スラヴェニアの国歌は「打ち破れ、猛進せよ」という意味の曲名で、南の帝国との戦いを強く意識した曲になっている。激しい曲で聴いていると確かにテンションが上がるが、私はこの「スラヴェニアの国よ、永遠に」の方が好きだ。

穏やかなピアノの旋律を聴いていると涙が溢れてきた。




第四章



昨日は調子が悪くて色々混乱していたが、しっかり寝て、すっきりした。今日は必ず行っておきたい場所がある。教会だ。

この国の宗教は、カトリック系と土地の原初的な宗教が融合したものだ。国教に位置づけられたため、宗教対立はなく、国王ともあまり対立しなかった。教会は資金集めなどには力を入れず、もっぱら儀式を重んじ、人々を精神面で支えることに尽くしたという。

教会の荘厳な造りに圧倒されてから中に入ると、その巨大さに驚く。高層ビル群を見慣れている現代の私ですら驚くのだから、当時の人々は天まで届くように見えただろう。

奥の祭壇の前では、神父が膝をついて祈りを捧げていた。

古めかしい言葉なのか、まったく意味が分からないが、神父の異様なまでの熱心さに見入ってしまう。

神父は同じセリフを繰り返しているようで、しばらく聞いているとだんだん理解できてきた。門前の小僧習わぬ経を読むとは、よくいったものだ。

「主よ、なぜ私に道を示してくださらないのでしょうか?」

神父はひたすらこう繰り返していた。思わずドキリとしてしまう。ステンドグラスを通じて教会内に届く光は、まさに神そのもののようだ。光は何も答えを与えずに、ただ神父に降り注いでいた。

教会内部の壁際には、いくつもの絵が掲げられており、聖書の場面が描かれていた。絵の下部には短い文章が書かれている。私はゆっくり絵を眺めながら、一つずつ読んでいく。

「あなたが苦しみの中にあるとき、神もあなたの側にいる」

「あなたが父を信じなかったとき、父はあなたを優しく迎えてくれた」

「あなたは神と父と母の愛から生まれたのだ」

装飾を排除した簡潔な言葉だからこそ、身に迫ってくるものがある。知らない単語も多く、スマホの例のアプリで翻訳して読む。

「あなたは、服を奪われます。あなたは、パンを奪われます。あなたは、ワインを奪われます。あなたは、お金を奪われます。あなたは、お家を奪われます。あなたは、お命を奪われます。しかし、あなたの想いは奪われません。天国への鍵になります。それだけでいいのです。」
たどたどしい言葉だが、それは、まるで日本語に不慣れな神父が、必死の想いで伝えているみたいだった。

教会を出て、ホテルにそのまま帰る前に少し街を歩くことにする。

手作りのアクセサリーを売っている個人商店もいくつかあり、見ていて楽しい。

その中で、ヒルデガルダの箱によく似た箱を売っているお店を見つけた。品の良い老婦人が店番をしていて、私が店内に入ったのをニコリと笑って迎えてくれた。店内には箱が所狭しと並んでいる。

箱の一つを手に取り、蓋をそっと開くと、シンプルな音色の音楽が流れ出した。

オルゴールだ。

「このあたりはね、昔からオルゴール作りが盛んなの」

店員の老婦人が穏やかに話しかけてくる。

「お土産になら、これがいいですよ」

シワだらけの暖かい手で渡されたオルゴール箱を開くと、この国の国歌が流れ出した。確かにお土産には最適かもしれない。けど。

「『スラヴェニアの国よ、永遠に』の曲のオルゴールはありますか?」

そう尋ねた私に、老婦人は曖昧な記憶をしばらくたどって、店内を探し回り、やがて一つの箱を見つけた。

手渡されたそれを開くと、あの曲が流れてきた。

私はしばらく何も言えず、そっと耳を傾けてきた。

「あなた、この曲が好きなのね」

「この曲、この曲をヒルデガルダも聴いていたと思うんです」

突拍子もなく私は喋ってしまったが、老婦人は少し驚いた顔をした後、笑顔で笑って

「ええ、きっとそうね」

と微笑んた。

ホテルに戻ると、レポート用紙を取り出し、私は一気に書き始めた。側には先ほど買ってきたオルゴール箱がある。

ヒルデガルダがいくら優れた王だったとしても、若い彼女にはきっと苦しかったときがあっただろう。しかし、政情不安定な中、人の目があるところで弱みを見せれば、つけ込まれるかもしれない。

彼女は誰もいない時に、そっと音楽を聴いていたに違いない。臣下に指示を与える時も、お守りのように、箱を手元に置いていたのだ。彼女は国歌を聴いていたかもしれない。けれど、女王の役割から束の間だけ解放されたとき、彼女がこの国を想いながら耳を傾けていたのは、きっと「スラヴェニアの国よ、永遠に」だ。

私は研究の結論をレポート用紙に記した。

「ヒルデガルダの箱は、オルゴール箱だった」




終章



ヒルデガルダの箱やワインなど、お土産を大量に買い込み、電車に乗って空港に向かう。この旅もあとは帰るだけとなった。

空港での待ち時間の間、メールをチェックすると、ゼミの先生からメールが届いていた。何気なく読み始めたが、次第に私の顔がこわばっていくのが自分でも分かった。

「気になる本があったと前に伝えていたけど、落ち着いて読んで欲しいんだが、実はヒルデガルダをテーマにした本だ。日本では、かなり話題になっていて、ニュースにもなっている」

ニュースサイトへのリンクが張られていた。

私は恐る恐る、クリックする。

ニュースサイトの記事が目に飛び込んでくる。

「ヨーロッパの小国スラヴェニアをご存知だろうか。今から二百年以上前、この国を治めていたヒルデガルダ女王が今話題だ。若くして女王になり、飢饉や帝国との戦いを乗り切った救世主ヒルデガルダ。ヒルデガルダに注目が集まるきっかけとなったのは、先日発売されたばかりの一冊の本で、すでにベストセラーの勢いだ。」

動画も見られるようになっていて、街中のインタビューでは、若い女性がその本を片手に「いえぇぇぇい」などと奇声を上げたり、太った男性が「ヒルデガルダって可愛いんですよね。守ってやりたいんです」などとよく分からないことを言ったりする様子が映し出されていた。

殴ってやりたいと思った。日本から一万キロを経て伝わる映像が忌々しかった。そして、その本が映し出される。

黒いハードカバーで、表紙には、先日美術館で見たばかりのあの箱の写真が載せられている。

書名は「ヒルデガルダの箱」。

帰りの飛行機の中では、何をする気にもなれず、ずっとうつむいていた。織田信長の本など腐る程ある。小説にしても、研究書にしても。それと同じことなのだ。そうは思っても、気持ちの整理がつかなかった。和気清麻呂の本がそんなに出ているとは思えなかった。

関空に着くと、まさかとは思ったが、本屋にあの本が平積みになっていた。一冊買って、家に着くまでに読み終える。頭をカナヅチで思いっきり殴られた気がした。

そう、本の中にははっきりと、ヒルデガルダの箱は、オルゴール箱だと書かれてあった。

これで私の研究は完全にベストセラー小説をなぞっただけのものに成り果てた。土産として買ったワインが重くてしょうがない。捨ててしまおうかと思ったほどだ。

本には著者近影が掲載されており、その下に作者のコメントとして「ヒルデガルダを少しでも多くの人に知ってもらいたいとの想いが、私に筆をとらせました。実は私、ヒルデガルダに似ていると言われることがあります。もしかしたら、この本を書いたのも、ヒルデガルダの導きがあったからかもしれません」と書かれてあった。

その作者の顔がヒルデガルダに似ているかどうかは分からないが、少なくとも私とは、似ても似つかない顔だった。




エピローグ



旅行から戻って一週間ほど、家にこもっていた。

親には旅行で疲れたとしか言わなかったが、研究のテーマはある程度伝えているし、ベストセラーの例の本のことも見聞きしているだろうから、娘が落ち込んでいる理由は察しているだろう。

父親は特に説教めいたことを言うでもなく、テレビを見てビールを飲みながら、自分の体験を語った。

「以前、会社でプレゼンがあってね。僕を含めた三人がそれぞれ新しいアイデアを発表する場だった。僕の前に発表した人の内容は、僕が考えてたのと同じだった。えらいことになったと思ったが、どうすることもできず、前の人の発表が終わった後、同じ内容を発表することになった。「同じじゃないか」と偉い人から指摘されて、仕方なく「同じです」と答えた。笑われたよ。後日分かったことだが、なんと三人目も同じことを考えてた。けど、彼には考える時間が少しあった。そして土壇場で別のアイデアを語った。そのアイデア自体はくだらなかったが、「同じじゃないか」の次だから、見栄えがした。三人が発表した順番は偶然だ。まあ、こんなことはよくあることだ。しかもね、一人目のアイデアはその後実行に移されたんだが、大失敗に終わった」

母親に至っては、もっと率直だった。

「昨日スーパーでね、晩御飯何にしようって悩んで、カレーがいいってひらめいたの。でもね、レジで前に並んでいる人のカゴの中をふと見たら、私のカゴの中身とそっくりだったわ。だってその日はお肉が安かったんだもの。でもいいじゃない、昨日のカレー美味しかったでしょう」

勉強してテストでいい点をとれば良かった時代が懐かしい。きっとこれから私が向き合っていかなければならない世界は、そうしたテストの点とは別次元の世界だ。

一週間ほど休んで、ようやく大学に行く。甘いなと自分でも思う。プレゼンで前の人と内容がかぶったからといって、へこんで一週間も会社休めないだろう。夕飯のメニューが前の人とかぶったからといって、へこんで一週間も家事を放棄できないだろう。

ゼミの先生は事故など無く、無事で帰ってきたことを喜んでくれた。私はとにかく色々と申し訳ない気持ちで謝りたかったが、先生はそれを制すと

「今から大阪に行ける?」

と尋ね、以前行ったことのある本屋に併設されたカフェの名前を告げた。

「先生は?」

「女二人の方が、話が弾むんじゃないかと思うから、行かない」

「私が会うのは女性なんですか。その方は」

「いいから、いいから。行けばわかる」

特に何も説明されないまま、電車に乗って大阪に向かう。

先生に言われた時刻の十分ほど前に着き、先にカフェに入った。

私は相手を知らないに、どうやって会えるのかと思っていたら、しばらくしてお店に入ってきた三十半ばほどの女性が側に来て、○○先生の教え子さん?と尋ねられた。ズバリ言い当てられたのに驚いたが、先生が私の服装等の特徴を事前に伝えていたらしい。

彼女が名前を名乗っても、まだピンと来なかったが、彼女が椅子に座り、テーブルを挟んで向かい会うと、ようやく、その顔に見覚えがあるのに気づいた。

「ヒルデガルダの箱」の著者だ。

私を地獄に落とした張本人。今はある程度平静さを取り戻したとはいえ、先生を恨みたくなった。いったい何を考えてこんな顔合わせをセットしたのか。純粋な一読者であれば、これ以上ない喜びだろうが。

「どうしても会いたくて。ごめんなさないね、呼び出してしまって」

「い、いえ、別に」

「大阪にはよく遊びに来る?」

「えっと、たまに」

「あなた何飲む? ここは紅茶がおいしいの」

拍子抜けするような世間話から始まり、ようやく本題かと思いきや、彼女は今考えているという新作の話をしだした。

「××っていう国を知っている? アフリカの国よ。スラヴェニアに続いて、日本人があまり知らない国をテーマにしたシリーズになればいいと思ってるの。この国はね、昔、少年の王がいたの。でね、影武者の少年がいたと言われていて、この少年王と影武者の少年の物語よ」

作家とはこういう生き物なのかと打ちのめされた。就職が決まらないとか、ゼミの研究がどうだとかで大騒ぎしていた私とは住む世界が違う。ようやくヒルデガルダの箱がオルゴール箱だとたどり着いて、それが先に本にされたとショックを受けていたが、この作者はさらに先を行っている。

高すぎる。

スラヴェニアの広場で、高い尖塔を見上げたときの感覚が蘇る。私はやっぱり地べたから空を見上げていて、一方、この作者は天使の如く、教会の尖塔の先で羽根を休めているのだ。絶対なる壁を感じる。

ただ、研究者としての道を歩んでいくのであれば、こういう壁も当然超えていかなければならない。ここで立ちすくんでいてはいけない。だからこそ、先生も会わせてくれたのだろう。
でもね、先生、ハードすぎるよ。

彼女とは十歳ほどしか離れていないわけだが、この差は年齢によるものなのだろうか。時間は、そこまで人を偉大にしてくれるのだろうか。

「ねえ、あなたの論文、見せてくれないかしら」

少年王の話が一通り終わると、いきなり急所を責められた。

自分でも意外なことに、スラヴェニアで一気に書き上げたあの論文が、鞄の中に入っていた。旅行に行ったときとは違う鞄なのに、家を出るとき、入れていたのだ。そう気づいて愕然とする。持って来いと他人から言われたわけでもない、あの本がベストセラーになってしまい、まったく無意味な論文と化していることは誰よりも自分がよく知っている。

それでも、私にはこれしかないんだ。これを拠り所とするしかないから、持っているのだ。

しぶしぶ論文を渡すと、彼女は所々頷きながら読んでいく。オルゴールが出てきた箇所でも、別に驚いた様子はない。百人がスラヴェニア旅行したら、百人ともオルゴールにたどり着ける気がした。

読み終えると、反応を聞く前に私の方から

「妄想ですから」

と不甲斐ない想いで言った。

「『日中の執務が終わると、ヒルデガルダは一人になり、箱を開ける。すると音楽が流れる。曲は「スラヴェニアの国よ、永遠に」。ヒルデガルダはしばし静かな音楽に身をゆだねた。』って書いてあるわね」

わざわざ恥ずかしいところを読み上げたことに殺気を覚えた。

「私はオルゴールの曲は国歌だと思ってたわ」

確かに本の中でもヒルデガルダはオルゴールで国歌を聞いていた。

「でもそうか、「スラヴェニアの国よ、永遠に」だったのね。なるほど、そうね」

彼女がやたらと一人で納得しているので、こっちが慌てる。

「いえ、そんな、何の曲かわからないですよ」

「そうなの? だって、「スラヴェニアの国よ、永遠に」なんでしょ」

「だから、それは、その、私の妄想ですから。別にオルゴールが発見されたわけでもないですし。そもそも箱がオルゴールだったのかも証拠はないですし」

私がそう言うと、彼女はしばらく真顔になった後、

「そっか」

と言ってあっけらかんと笑った。

それからしばらくまた世間話をしてから別れた。別れ際に言われたあの一言が忘れられない。

「オルゴールの曲名は、国歌よりも「スラヴェニアの国よ、永遠に」の方が現実味を感じるわ」

大阪に出てくるのも久しぶりだ。せっかくここまで出てきたのだからと、初めて、あべのハルカスに登る。地上六十階に着くと、夕焼けの空が一面に広がっていた。

スラヴェニアを旅したのは、私の妄想だったのかもしれない。

スラヴェニアなどという国は、実際には存在しないのかもしれない。

ヒルデガルダ女王もまた、妄想の存在かもしれない。

それでも、私の想いは現実だ。

たとえ就職が決まらなかったとしても、研究がうまく進まなかったとしても、やっと辿りついたと思ったオルゴールの話が先に誰かに本にされたとしても、スラヴェニアを愛し、ヒルデガルダに恋をした私の想いだけは決して奪われない。

それは、妄想の中で掴み取った私の確固たる現実だからだ。

旅行から戻ってきてから、あの本は一度も開いていないが、文章は頭の中に一言一句入っている。

「蒼穹の元、赤茶けた大地に展開した一万を超える帝国軍は獅子を象った軍装に身を包み、日光を反射させた剣が並ぶ様は、巨大な獣が牙を剥き出したようだった。対する女王の軍はわずか一千ばかり。それも寄せ集めた不慣れな兵で装備も貧弱なものだった。だが、若き女王は凛として軍を指揮する。飢饉から国を救った奇跡を起こした女王は、再びこの国難に立ち向かおうとしている。女王の頂きに乗る冠には、王家の紋章たる四枚の翼を持つ鷲の姿が、燦然と輝いていた。」

展望台から眺めると、ねぐらに戻るのか、何匹もの鳥が飛んでいるのが見えた。

母親からメールが届いていた。

「晩御飯何がいい?」

「グリューワインに合うやつ」と返す。

その後、電話で喋りたくなって母親にかける。

「ねえ、面白い話があるの。土産話、してなかったよね。スラヴェニアの料理店でね、ニアっていう綺麗な女の人と相席になったの。その後がびっくりよ」

父親にも、ゼミの先生にも、友達にも、この話をしないといけない。そういえば、さっきの作家さんにもこの話をすれば良かった。

また近いうちにスラヴェニアに行きたいという想いが膨れ上がる。

次に行ったときはどんな体験ができるだろうと楽しみにしながら、私は地上三百メートルの高さから、街を眺めていた。

                                                                                     (了)

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