ヒルデガルダの側近                                    遠太




 アルノルトは腕の中の紙袋を大事にかかえて城下町の大通りを歩いていた。王城に勤める父親に荷を届けるためである。彼の足取りは軽かった。

 街路樹が黄葉して今あざやかに眺めのよい目抜き通りは、王都一の大広場である国教会前広場から王城正門までをまっすぐに繋ぐ幅広い通りで、戦時には敵の騎馬が一直線に攻め込みやすいつくりが不安の種であったというが、結局城下は直接の戦火に巻き込まれることはなく、街路樹も商店もほぼその様相を保ったまま、圧倒的不利の続いた戦争は十余年前、帝国に降伏する形でひとまずの終結を迎えた。

 代わりに終戦直後の城内は血で血を洗う様相だったともいうが、それは大人の語りに聞くばかりでアルノルトの幼い記憶に残っているものではない。しかし戦争が終わってからも、手痛い敗戦を喫した国は嵐の中の船のように落ち着かず、王は頻繁にすげ代わり国教会や貴族が王権に敵対し、苦しいやりくりをする庶民も激しくあおりを食って、暴動があり内乱があり、つい二・三年前まではこの目抜き通りにも剣呑な様子の官憲が闊歩しては毎日誰かを引っ立てていったし、昨年の秋にも、通りを埋めつくすほどの人々が殺気立って王城を目指したことがあった。そうした穏やかならない光景は、アルノルトもよくよく目にしてきているのである。

 物心ついてみたら敗戦後の混乱の最中だったという生まれつきのアルノルトだから、ここしばらくのどかな活気を見せている大通りを歩くのは、それだけでも気分がいい。

 突き抜けるように青い晴れた空の下、灰色の石畳がすがすがしい目抜き通りの一角にあるアッヘンヴァル食堂が、彼の育った家であり、今は王城にいる父ヘンリックが立ち上げた愛着深い店であった。

 アッヘンヴァルは今でこそよく流行っている食堂だが、その前身は宿屋業と少しばかりの酒を添えた、裏通りの小さな料理店だった。当時から仲のよかったヘンリックと兄オスヴィンのアッヘンヴァル兄弟が、潰れた酒場を安く買いとって細々と経営をはじめ、客の口伝えで徐々に評判を呼んだ。味のまずさがお国柄だが、ここの料理は悪くない。なにより兄弟の人徳によるものか、値段のわりに客質がよく、金のない庶民はもちろん裕福な商人やしがない画家に知識層、末端ながら品よく暮らす貴族筋まで顔を出すようになった。そもそもヘンリックは元は貴族の屋敷で、オスヴィンは豪商の店で下働きをしていたから、その筋の知り合いもよく訪れたし、どんな客を相手にするにも二人は万事心得てそつがなかった。

 アッヘンヴァル料理店のなにより優れていたのは、そうした幅広い立場の人々が狭い店内に隣り合って、隔てなく語り合う場となった点である。

 もともとヘンリックの淹れるブレンドティーを売りにしてゆっくり飲ませるやり方だったから、客の回転が悪くとも店は迷惑がらなかったし、店主兄弟も皆の話によろこんで耳を傾け、白熱したときには閉店の時間を過ぎてもブレンドティーで議論を戦わせたという。

 後に宿屋業と分離して現在の食堂を開いてからも、この気風は常連客ごと受けつがれた。幼いころから店を手伝って育ったアルノルトも、その年の麦の出来から骨董の目利き、カードゲームの駆け引きのしかた、外国に伝わる物語、はては政界の事情まで、雑多なことを聞きかじりに覚えたものである。

 彼ら常連のおかげで、王膝元の目抜き通りという思いきった場所に移した食堂も早いうちから軌道に乗った。

 少し前に南の国境で戦端が開かれ、そのあおりを受けて店をたたんだり王都に流れてきたりした人々が目につきはじめた頃である。ヘンリックの開店した新しい食堂は、元の狭すぎる料理店にくらべると数倍の規模だったが、そうやって王都をさまよう職にあぶれた人々を積極的に迎え入れて十二分に店舗をまかなった。むしろ給料分の出費のほうが手痛いほどだったというから、彼らに働き口をもうけることが目的の一つでもあったようだ。料理人も給仕も、出身・性別・年齢と実に様々な者がそろったが、誰もが認めるヘンリックの人を見る目のよさで、料理店時代からの常連も納得して足しげく通ってくれたのである。

 ともあれこれが息子アルノルトのやっと歩きはじめたころだったから、ヘンリックにとっても思い切った決断であったのは間違いない。物価の高騰や、じわじわと影の広がる治安の乱れなどでアッヘンヴァル食堂にもおおいに不安はあったのだが、結果として、人々が不安や不満を分かち合う寄り合い場としての貴重な役割を担い、店は安定した経営を保っていた。戦時のことで料理はどうしても値上がりしたが、開店からその味を守っているブレンドティーは決して値を変えなかった。

 当時から人々は親帝国派と反帝国派に割れていた。ヘンリックはどちらの客も区別なくまねき入れたが、過激な者やマナーを欠く者は他の客の手によってたたき出されたので、戦争の続く間に、アッヘンヴァルは両派閥が身分関わりなく冷静に意見を交わせる、数少ない貴重な場のひとつだとして、王都でひそかな評判が立った。こうなるとアッヘンヴァルはもはや単なる食堂ではおさまらない存在になったわけである。

 アルノルトが後に大人の話で勘づいたことだが、最も戦火の激しかったころの客の中には、どこで噂を聞きつけたものか正体を隠して、とてもおおっぴらには口に出せないような大物も紛れ込んでいたらしい。ともかく戦時から現在に至るまであらゆる客がつどったから、身分という意味で今まで食堂にそろわなかったのは、城壁の中の人々くらいだろうとアルノルトは思う。なにか規制のようなものがあるのかどうかはわからない。

 特に玉座の主が定まらなかった戦後、覇権を争って押し引きする城内のお偉方にとっては、アッヘンヴァルは存在を知っていればさぞ穏やかならないものであっただろう。あまり利益を求めない地味な商売がよかったのか、うかつな行動をとらないようヘンリックが皆によくよく言い含めていたのがよかったのか、アッヘンヴァル食堂は今まで官憲に踏み込まれたこともない。よほど色々と考えて気を回していたのだろう。

 アルノルトの最も古い記憶にある父の姿といえば、今はアルノルトの自室になっている店の階上の小部屋、ドアの隙間からのぞき込んだ、兄と向かい合って熱心に話し合う大きな背中だ。

 ところで、アッヘンヴァル兄弟の父親は王の側近として長く勤めた人であった。

 終戦のきっかけともなった当時の国王の戦死、その報せを受けて、すでに妻も亡くしていた実直な老人は息子たちにわずかな財産を分け与えて自ら命を絶った。二人に宛てて遺された長い手紙は、どうやら王族や宮廷の内情が含まれていたようで兄弟によって破棄されたが、ともかくその手紙には、次男ヘンリックを後任にという意向が記されていたらしい。

 つまり、自分に代わり王に仕えよというのである。

 当時王都に名のあったアッヘンヴァル食堂の主、ヘンリックは、あっさりとこれを承諾した。

 王の側近というのは、文字通り王陛下の側近くに直接お仕えするもので名誉だけは高いのだが、その実身分はごく低く、職務もつまらないものだ。アルノルト得意の聞きかじりによれば、側近とは王の執務室につながるほんの小さな部屋にじっと身を控えていて、チリチリとベルが鳴るのを聞きつけたら出ていき、お茶を淹れたり必要なものをそろえたり、時折さしむけられる無駄話に短くお応えしたりして、用が済めばまたなるべく気配を殺して小部屋に戻っていくといった仕事である。

 父親の遺言とはいえ、そのときヘンリックが城下に担っていたものも馬鹿にできないはずだったが、彼の即断によって食堂の一切を任されることになった家族も特に異論をとなえることはなかった。終戦直後の宮廷は混乱をきわめており、すぐに父親の後を継ぐというわけにはいかなかったが、その間にヘンリックは白熱するアッヘンヴァル食堂を切り回しながら少しずつ支度をととのえた。

 数年を待って、元の料理店を宿屋にして営んでいた兄オスヴィンが食堂の店主を兼ね、妻が実務を負う形で、ヘンリックは王城に送り出された。アッヘンヴァル食堂の性質上、客の中にはさすがに抵抗を示す者もいたが、ヘンリックの人柄がここぞとばかりにものを言って大方は問題なかった。

 兄弟の父の自害のことがあったから、王の譲位や崩御の報せがあるたびに親族一同は身構えたが、ヘンリックは落ち着き払って勤め続け、現女王即位後もどうやらそのまま召し抱えられている。

 そういうわけで父親と過ごした時間は短かったから、アルノルトは母と伯父夫婦と常連客とでよってたかって育てられた子供であった。よその父子より触れあいは少なかったが、周りの誰もが慕う父親のことをアルノルトは誇りに思い、おおいに尊敬している。父はおそらく側近という役目に、表面上の職務とは別になにか重大事を見出したのに違いない。ならばアルノルトも胸をはって、父の食堂を守っていかなければならないだろう。

 アッヘンヴァルを切り回していた頃の父を思い出しては、博識で篤実で、一点の曇りもないほど清廉であった彼のごとくあらねばと日々の励みにしている。

 ちょうど現女王の即位したころから、それまで雑務を手伝うばかりだったアルノルトも、親族とコック長と給仕長による話し合いに多少口を出せるようになった。今日しばらくぶりに会う父に、少しでも成長した姿を見せなければと、アルノルトは近頃ますます伸びる背を心持ちまっすぐにして通りを急いだ。店はどこもとっくに開いてにぎやかに客を呼び込んでいる。目抜き通りの店主たちはほとんど知り合いだから、数歩歩くたびにあいさつを交わした。店先に出ていたパン屋の親父が、今朝の城は一段とすばらしいなと言うので、アルノルトは歩きながら正面の王城をふりあおいだ。

 まだ高くない陽のさわやかな光を浴びて、王城は確かに美しい。毎日見ている荘厳な姿だが、今日はいつになくみずみずしい色彩を放って、まるではつらつとほほえむ若い女のようなたたずまいだった。

 ぽかんと見上げたアルノルトは、一瞬後にはっとして背筋を正した。陛下が住まい父が働く王城につやめいた女の姿を重ねるなど。すぐ赤くなると皆にからかわれる頬を涼しい風にさらしながら、城壁を迂回する。

 ヘンリックはあまり家に帰らず、当然ながら城内に住み込みで勤めている。城内とはいっても、もちろん王貴族や大臣たちと同じようなところにはいない。裏門から入ってほど近い城の北西あたりにはりつくように、これも箱はそれなりに立派なのだが、使用人が寝起きするための棟があって、ヘンリックはそこに部屋を賜っていた。父を訪ねるのはめったにないことだが、これが初めてというわけでもない。

 アルノルトは長い距離を城壁に沿って歩いていって、遠くに見えた裏門の警備兵に会釈をした。たまたま気さくな性質の兵が詰めていたのか、門の前に立つ二人のうち片方がアルノルトに気づき、まだ距離のあるうちから野太い声をかけてくる。

「やあ坊主、朝から面会か」

「はい、父に届けもので」

 アルノルトも声を張りあげて、小走りに裏門まで近寄った。

 自分と父の姓名を名乗ると、城門の中の兵が手に持った紙束をめくり、さっき声をかけてきた男がアルノルトの荷を簡単にあらためた。紙袋を開いて顔を近づけ、すんすんと鼻を鳴らす。

「おおこりゃ、いい匂いだな。ケーキか」

「うちの店の目玉だから、美味いですよ。特別に大きいのを母と二人で焼いてきたんです」

「そりゃあ親父殿がうらやましい」

 ところで、ともう一人の若い門兵がアルノルトの背後に目を向けた。

「そっちの嬢ちゃんは連れか?」

 アルノルトがおどろいてふりむくと、そこに立っていた女はおおげさな笑顔のまま一瞬舌打ちをしたようだった。アルノルトとそう変わらないくらいの若い女だ。城下に知り合いは多いアルノルトだが、見覚えがない。

 ふりむいた拍子に女と目が合ったアルノルトには女の魂胆がわかった。門兵とのやりとりで城内に入るとわかったアルノルトの後ろについて、アルノルトには悟られず、門兵には連れのふりで、誰何を受けずに中へ入ろうとたくらんだのである。

 そんな馬鹿なまねが通用するわけはない。アルノルトが眉をつりあげるよりもすばやく後衿をひっつかんできた女の切りかえの速さを考えると、女もほとんど無理を承知で、最初からこうするつもりだったのかもわからない。有無を言わさず引きよせられてアルノルトがたたらを踏んでいるうちに、女は門兵の手から紙袋をかすめとって、

「ちょっと出直してくるわ」

 と片手につかんだアルノルトごとその場を離れた。裏門の男たちが一言もさしはさむ隙のない早業であった。

「おい、こらっ……おい!」

 咳き込みながら引きずられ、通りをまたいで北の方へ数本外れた裏路地に入って行こうとしたところで、アルノルトはさすがに女の手をふり払った。打擲するようになってしまった女の腕の細さに思わずたじろいだが、女は平然とアルノルトをふりかえり、小憎らしい顔つきで片腕にかかえたままの紙袋を見せびらかしてみせた。

 まばらに通りを歩く通行人がちらちらとこちらをふりかえるが、女が平気な顔をしているからか、誰も声はかけてこない。

 アルノルトは女を睨みすえたまま非難を込めてため息をついた。大勢の客を見てきたアルノルトの目は悪人とそうでないのとを十分に見分けることができる。この女は後者だ。しかし悪人でないからと言って、悪さをたくらまないわけではない。

「……返せよ、それ」

「後で返してあげるわ。取って食べやしないから、ちょっと付き合ってよ」

「なんでだよ、いい加減にしろ。用があるならここで言えばいいだろ」

「まあまあ。折り入ってちょっと頼みたいことがあるの」

「城内に手引きしろって?」

 声をひそめて言い捨てたアルノルトは、同時に少し警戒を解いた。喋らせてみるとこの強引な女に悪意も敵意もないことはわかる。

 アルノルトはちょっと肩をゆすってから、強い口調をあらためた。

「なあ、なんの事情があるか知らないけど、そんなの絶対に駄目だぜ。やっちゃいけないことだ。俺はなんて言われたって手を貸せないし、君もやめとけ」

 女はふっと笑った。

「堅いな。ヘンリックはけっこう話せるのに」

 えっとアルノルトが声をあげるのを尻目に女は裏路地に滑り込んでいく。混乱したまま反射的に、女よりは荷を追う形で、アルノルトも後についていった。

 いや、門兵との会話を聞いていたのだから、女がヘンリックの名を知っているのはおかしくない。しかし知り合いを装っただけにしては、ヘンリックと呼んだ彼女の声には、やけにあたたかい親しみが込められていたようだった。

 城下の人々は、今でも彼のことをアッヘンヴァルのマスターと呼ぶ。ヘンリックと呼びすてにするのはよほど古参の常連か身内くらいのものだ。ましてこんな若い小娘が、これほど気安げに呼びすてるような名前ではない。

 裏路地はそれぞれの表通りに面した家々が尻をつきあわせる細い隙間で、小さい裏口のそばには水瓶があったり、木材を立てかけてあったり、干し肉を吊るしてあったりしてなおさら狭い。アルノルトがつまづいたり引っかかったりして通るところを、細身の女は慣れた様子でひょいひょいとすり抜けていった。待てと言ってもふりむきもしない。

 もといた王城裏の通りもとっくに見えなくなって、アルノルトの追いかけるより二軒先の民家の裏口へ、女はちらっとアルノルトに目くばせしてから入っていった。あわてて追いつき、開け放された戸口をのぞき込む。

「あら、あら。いらっしゃい」

 大人の女の声がしてアルノルトは思わず首を引っこめた。中はすぐ調理場になっていて、隅の方でエプロンをかけた女性が鍋をかき回している。てっきり女の家かと思っていたら、どうもそういう様子ではない。

 うん、と簡単な返事が聞こえて、アルノルトが見回すと、調理場を横切った正面にまた小さな木戸があって、追ってきた女はその奥に入っていったらしかった。少し開いた隙間から細い手がのぞいてアルノルトを手まねきする。困惑してエプロンの女性を見やると、四十がらみのその女性は心得たように声を立てて笑い、「お入んなさい」とうなずいた。

 酒の匂いが強い家だが、女性の格好も清潔で、うろんな様子ではない。一呼吸迷ってから、アルノルトはきっちり会釈をして「失礼します」と中へ踏み入った。

「コルンがあるけど」

「おかまいなく……」

「ありがとう、いただくわ」

 木戸の奥から声がする。酒瓶と二人分のグラスを押しつけられてアルノルトは足の爪先で木戸を開けた。

 どんな部屋かと思えば物置だった。狭い部屋だ。木材や古道具や色々な得体の知れないものがきわどいバランスで積み上げられているが、一歩踏み入ると膝をぶつけそうなくらいのところに、古びた樽とそれを挟んで木箱が二つ、ちょうど机と椅子のようにしつらえてある。女は奥の埃くさい木箱にひょいと腰かけていて、アルノルトを向かいの木箱にうながした。

 アルノルトは瓶とグラスを握ったまま女を見下ろした。

「君は一体誰だ? 城内の人か?」

 父の込み入った知り合いといえばそれしか考えられなかったが、ならば堂々と城内に入れない理由がわからない。

 女は身を乗り出して、アルノルトの後ろの木戸を閉めた。

「人の素性を聞きたいなら、まず自分から名乗るのが筋じゃない?」

 もう知っているんだろうと跳ねかえす手間が惜しい。

「アルノルト・アッヘンヴァル。ヘンリック・アッヘンヴァルの息子だ」

「あたしはヒルデガルダ。よろしく。どうぞ、そこ座って」

 アルノルトはその場に凍りついた。女は構いもせずにアルノルトの手から瓶とグラスを取る。

 物置部屋に明かりはなく、建てつけの悪い木戸から漏れた光だけでぼんやりと薄暗かった。女の白い手が浮き上がって目を引く。テーブル代わりの樽の上で、女の手が二人分の酒を注ぐのを眺めているうちに、アルノルトの心臓はだんだんと早鐘を打ちはじめた。

 父の仕える女王はアルノルトと同じ年頃の乙女だという。

 いや、まさか、と狼狽するアルノルトに、ヒルデガルダを名乗った女は軽くグラスをかかげた。どことなく人を食ったような表情を崩さない女だったが、アルノルトの顔をまっすぐにのぞき込む目は、木戸の光をひらめかせて、ずっと年長者のような知性と真摯な色をにじませている。

 幸か不幸か、アルノルトは直感的に確信した。

「父君には世話になってる」

「はっ……」

 思わずかしこまって、忙しなく瞬きながら、あの、とアルノルトは絞り出した。舌がなめらかに動かない。

「へっ……じょっ、女王陛下であららせられますか」

「陛下はやめて。ヒルダでいいから。座ってちょうだい」

 三度目にうながされて、アルノルトはようやくぎくしゃくと席についた。

 裏路地の入口で乱暴にふり払った手、勢いづいて吐いた暴言、目下をさとすような説教。

 暑くもないのに汗が出てくる。はいどうぞ、と気軽に差し出されたグラスは思わず受けとったが、口をつけられるはずもない。目の前で酒を飲む女王を直視できずにアルノルトはひたすら背筋を固くしていた。

「それで、頼みっていうのは他でもないんだけど」

「は」

「もっと楽にして。それ飲んだらどう」

「は」

「あなたの連れってことにして、あたしも城に入れるようにしてくんない?」

「は……」

 そうだ、大きな疑問を忘れていた。女王の庶民じみた口調を気にする余裕もなく額の汗をぬぐう。

「なぜこのような……」

「午後一番から会議があるんだけど、さすがにそれまでに戻らなくちゃまずいのよね。ヘンリックがごまかしてくれてる間に帰らないと。大臣たちにバレたらうるさくってしかたないし」

 ヘンリックと言った名前を自分の父親と結びつけるのに数秒かかった。

 あの父が女王の忍び歩きを手引きしたのか。めまいがした。

「いつもこのような……無茶な、あの、手立てで、お戻りになっているのですか」

「手立てなら色々とあるけど、最近はさすがにネタが尽きてきたのよね」

 若き女王はこともなげに言う。「あなたが来てて助かったわ。ありがとう」

「はあ……」

 礼を言われることではないが、汗が止まらない。

 女王は酒を持ったままふと身をかがめて、足元に置いていたアルノルトの紙袋を取りあげた。女王の座っている木箱のほうが高いのでちょうどバーカウンターのようないい具合だが、アルノルトのほうは身長差にもかかわらず女王を見上げて足を余らせている。

 女王は紙袋をのぞき込んで門兵の男がしたようにすんすんと鼻を鳴らした。もう焼きたてという頃合でもないが、まだ香りがあるだろうか。アルノルトの鼻先は酒の匂いが占領している。

「ヘンリックへの届けものね。取りあげちゃってごめんなさい。記念日かなにかだった?」

「は、いえ、父の誕生日が近くて、今日の午前中なら直接受け取れるからと手紙が――」

 余った足をもぞもぞさせながら言いかけて、アルノルトはハッとした。まさか父は女王のことまで織り込み済みで、今日この時間を指定したのではあるまいか。

 実の息子をたばかるようなやり方だが、あの父に限ってそんな――とはこうなると言い難かった。どうも幼いアルノルトが抱いていた父親像と実際のヘンリックには、思いの外ズレがあるような気がする。というより、間違いなく合致していると考えるほうに無理があるのかもしれない、とアルノルトはそこで初めて気づいた。

 小狡い、いや、これくらいの小手先は、たやすくきかせてみせる人なのだ、あの偉大な父は。

 衝撃や失望というよりも、その気づきがあまりに自然に腑に落ちてしまったことに慌てた。まさか俺は最初から知って知らないふりをしていたのか。

 めまぐるしく動揺するアルノルトに女王はさらに追い打ちをかけた。

「ヒルデガルダ」

「え……」

 女王が小さく呟いたのを聞いたアルノルトは、数瞬ぽかんとしたあと耳まで真っ赤にした。女王は自分の名を呟いたのではなく、紙箱に印字されたケーキの名前を読み上げたのである。

 この名前がいわくつきだった。

 昨年、国は全土にわたって大凶作となった。物の集まる王都ですら食いつめた人民が殺気立ち、備蓄を出さぬ王城を取り囲んで、いよいよ明日にでも暴徒と化すかというところまで至ったのだが、その日に突如あらわれた新しい食材によって、危機的な食糧難は嘘のように解決された。

 それまで毒があると恐れられていた馬鈴薯である。

 女王は独自にこれを栽培し、調理法を研究して、飢饉に備えていたのだった。

 若き女王の賢慮によってまれに見る大凶作もほとんど犠牲者を出さずに済んだ。馬鈴薯はあっという間に全土に流通し、さまざまな調理法も広く伝えられた。国内の料理店はこれに協力し、馬鈴薯を用いた料理とその料理法の宣伝に努めよとの勅令もあったので、アッヘンヴァルはこれに従っておおいに貢献した。

 特に力を入れたのが、名物のブレンドティーと相性のよかった馬鈴薯のケーキだった。

 このレシピにはあえて一切の手を加えず、王城から触れのあった方法で忠実に焼き上げた。店で振るまうほかに持ち帰りもできるよう工夫をして、箱の中にはレシピを詳しく記した紙を入れておく。さて売り物にするならば名前を決めなければならないが、となったところで、勇んで意見を押し出したのがアルノルトであった。

 これに名をつけるのであれば、賢帝ヒルデガルダその人の名でしかありえない。

 アッヘンヴァルの一族は立場上、国の体制に関わることには、たとえ身内の間であっても偏った思想を示さないようにと留意しているが、なんと言っても二代にわたる縁があるので、王家にはどうしても精神的な親しみが深い。主君が正しい人で正しく力を行使できるのならば、国のためにそれ以上大切なことはない、というヘンリックやオスヴィンの姿勢もある。ヘンリックもその父も体制や派閥に仕えるのではなく、王その人に仕えるため伺候するのだという心構えであった。

 そうした中に育って、王が今まさにその正しい力をふるい人民を救ったとなれば、アルノルトが熱狂的なまでに女王への忠誠を示したのも無理のないことだった。

 アルノルトはヒルデガルダ女王におおいに期待を抱いていた。今度の女王は、あの勇壮きわまりないヴァンゼルト伯処断の件から一気に門閥貴族の整理を押しすすめてみせたし、飢饉を救った手立て手際も、若き女王の力強い意気と勢いを感じさせるようだった。戦後以来続いていた、現れては何もしないまま権力同士の足の引っ張り合いで消えていった王たちとは違う。週に一度まめに届く父からの手紙も、女王の素顔をうかつに書いてあるようなことはなかったが、なにか静かな希望に満ちているように感じられた。

 今度の女王はきっと、正しい力を正しく行使なさるお方だ。

 そのとき国民の大勢においても女王支持の機運が高まったこともあり、事の次第を考えあわせてももはや誰にはばかることもあるまいと、女王の賢慮をたたえるべく、アッヘンヴァルの売り出す馬鈴薯のケーキはアルノルトの熱心な主張どおりに「ヒルデガルダ」と名づけられた。

 このケーキはよく売れた。あちこち回って商売している客のわざわざ知らせてくれたことには、「ヒルデガルダ」の名は国内のほうぼうで通用しているらしい。

 当然ながら、それがアルノルトの功績だとは言いがたいだろう。せいぜいが王都に浸透させる一助になった程度で、しょせん誰もが思いつくことを、アルノルトも思いついただけにすぎない。しかし、あえて強固にその名を推したアルノルトの熱意は本物だった。たとえありきたりな名付けであろうと、燃え上がるような義心と女王に対するこうこうとした敬慕や忠誠を、まっすぐにそこへ込めたのである。

 いわくと言うのも体が悪いが、そういう次第だったから、今の間があまりに悪い。

 あろうことかヒルデガルダ女王当人が目の前に座って、アルノルトがありったけ思いを込めた名の記されたケーキを、しげしげと見ているのである。

 アルノルトは一瞬で耳の先まで熱くした。母と伯父夫婦と主だった従業員の居並ぶ前で自分のぶった大熱弁を思い出した。今更になって恥ずかしいのもさることながら、己が女王という人に抱えていた山ほどの憧憬と敬慕を思い出して、目の前の人が女王だと気づいたときよりも一層恐縮した。

 心臓がぎこちなく跳ねまわって体がしゃちほこばる。春先のタウ河も横切れるくらいに目を泳がせながらアルノルトは大汗をかいた。頭が真っ白になるとはこのことだ。脳がぐるぐる無駄な動きをする。

 そうして同時に――なんだか妙な風に冷静になった。心の半分を崖っぷちに置いたまま、残りの半分が先に崖を転がり落ちてしまって、広々と平らな草原に軟着陸したような感じだった。汗をかきながら、アルノルトは草原で呆けているほうの半分で、目の前に座る女王を見上げた。

 若い娘だった。酒のグラスを片手に持ったまま狭苦しい物置部屋でくつろいでいて、人の荷物をのぞき込み、匂いを嗅ぐ鼻先にただよった埃でむずがゆそうにしている。アルノルトの従姉よりも幼いし、彼女ほど着飾ってすらいない。本当に同年代の、そのあたりにいるような凡々とした女だった。

 女王は紛れもなく、ただの人だった。

 アルノルトはゆっくり背筋の力を抜いた。

 失望したわけではない。見下してもいない。ただ、王という存在も自分と同じように息をして食べて寝起きする一人の人間なのだということを、あたりまえに得心しただけのことである。

 ぼんやりしながら、少し誤解していた、とアルノルトは思った。誤解するというより、よく分かっていなかった。

 この数年の治世は彼女によるものだし、父は王に仕えているのではなく、この女性に仕えているのだ。

「おいしそうな匂いね」

 女はもう一度息を吸い込んだ。

「お腹すいてるのよね、あたし」

「あ、失礼ながら、陛下、そのケーキは父への贈り物なので、ご容赦を」

「食べないわよ」

「は」

 アルノルトに紙袋を渡しながら、女王はほんのわずかに、アルノルトの顔色をうかがうような目つきをした。

「せっかくの機会だけど、何か聞きたいことはないの?」

 アルノルトはかしこまって女王の視線を受けた。初めて真正面から彼女の目を見たような気がする。こうしてみると、くだけた立ち居ふるまいや幼さの残る顔立ちにそぐわないと思えるほど、力強く印象深いまなざしだった。

「なんでしょうか」

「ヘンリックのことよ。ファンってくらいの父親好きかと思ってたわ。王城での様子とか気になんない? 手引きのお礼に話してあげてもいいんだけど」

 いたずらめいたにやにや笑いをしてみせる女王に、一体ヘンリックは、毎週長々と返信を寄こす息子のことをどう語っているのだろうと想像して、アルノルトも照れくさく苦笑しながら、丁寧に女王の申し出を辞した。

 アルノルトは実のところ、ヘンリックが実際どんな仕事をしているのかおおよそ分かっている。身内の大人たちは当然全て承知の上で口をつぐんでいるのだし、それを身近に見ていれば子供でも、いや子供だからこそ敏感に察するところがある。

 側近は王に呼ばれれば出ていって、お茶を淹れたり必要なものをそろえたり、王から時折さしむけられる無駄話にお応えしたりするという。

 この無駄話というところがミソだ。本来ならば本当にあたりさわりのない言葉しか交わさないのだろうが、たまたま側近が知恵深く気の利いた人物であれば、主君のこぼす愚痴や悩みに、的確な助言をさしあげることもあるだろう。それが二度、三度と続けば、王は次第に内々の相談事を、この身近な使用人にもちかけるようになる。

 おそらくはアルノルトの祖父がそういう人物だった。そうしてひそかに王の政を助けていて、主君を追って命を絶つと決めたとき、以後国が見舞われるであろう暗黒の時代に王を助ける、しかるべき後任をと考えて、次男ヘンリックに白羽の矢を立てたのだ。そうしてヘンリックは亡き父の役割を忠実に引き受けた。

 そうでなければ祖父がわざわざヘンリックを名指したはずはないし、ヘンリックがあれほどの機敏さで承知したはずもないし、交代の同僚もあるだろうに、年中ろくに妻子の顔も見ず王城にこもっているはずもない。女王がアルノルトに向かって、側近風情に世辞でも「世話になっている」などという言い回しをするはずがないのだ。

 そうなれば、仕事中のヘンリックのことなど、アルノルトがうかつに聞き込んではいけないだろう。

 ずっと昔小部屋にのぞき見た父の背中を思い出す。その対面に、このふてぶてしい顔の女王を座らせてみて、アルノルトは知らず微笑んだ。

 女王はあからさまにつまらなそうな顔をして、「つまらないわね」と実際に声に出した。お堅すぎる、と言外に言っている。アルノルトの不思議に凪いだ目は、女王の表情にかすかな気遣いのようなものを見て取った。気のせいにも思えたがかまわず付け加える。

「陛下。私は、父のことを心から尊敬していますが、今日一層その思いが増しました」

 女王はどうやら、今回の手引きのためヘンリックが息子に方便を使ったことを承知している。アルノルトの唐突とも言える表明を真顔で聞きとどけた女王はひょいと肩をすくめ、

「ヒルダでいいって言うのに」

 と返答はそっけなかったが、声の調子は柔らかかった。

「じゃああらためてお願いするけど、どう。頼める? 今回のことで万が一不都合が起きたとしても、あなたにもヘンリックにも不利益はないようにすると約束するわ」

「はい。お引き受けします」

 アルノルトは口をつけないまま握りしめていたグラスを見下ろして、一息ついてから、軽く女王に向かってかかげ、一気に中身を飲みほした。

 女王は愉快そうにちょっと目を瞠った。

「いけるクチじゃん」

「いえ、下戸です」

 焼けた喉をしきりに咳払いで整えながら、参りましょうとアルノルトは立ち上がった。ケーキの入った紙袋を大事に抱え、瓶とグラスを取る間に、女王も残った酒を飲みほして腰を上げた。

 そのグラスも受け取り、向かい合って立つような状態になって、アルノルトと女王はしばし沈黙した。部屋が狭すぎるので、アルノルトが先に出ていかないと女王も動けない。

 木戸の隙間からはかすかな鼻歌が聞こえ、馬鈴薯のスープの香りがただよってきている。けげんそうな表情を向けられて、なにか一言伝えなければという思いにせっつかれていたアルノルトは、あせって口を開いた。

「父を……」

 父のことをよろしくお願いしますとか、これからもどうぞ父を頼りになさってくださいとか、おそらくはそういった内容の言葉が口から出かかって、どちらにしても不遜にすぎると思ったアルノルトは、とっさに言葉をすりかえた。

「俺も父のような人になって、陛下をお助けします」

 女王ははたと瞬いた。

 言いきって我に返ったアルノルトもまたよくわからない汗をかく。なんだ今のは。あげく酒のせいで声がかすれて、なんともしまらなかった。

 直立不動でうろたえるアルノルトに、女王は晴れやかに笑いかけた。アルノルトがぽかんと見とれるほど柔らかく、みずみずしい華やぎを押し放った、はつらつとした笑顔だった。

「ありがとう。期待している、アルノルト」

 顔の熱さは酒のせいだ、と念じながらアルノルトはヒルデガルダに深く頭を下げた。

                                                                     (了)




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