ヒルデガルダの婚約                            牧原西穂

 

   序章

 

 はじまりはある事件から、だった。

 いまから五年前、まだ先の王が健在だった時代に、とある青年貴族がちょうど成人したばかりの女の住む屋敷の門を叩いた。

 遠路はるばる訪れた青年貴族に同情した女は彼を屋敷に上げ、用向きを問うた。

 先の戦争で帝国に敗れて以来、王国は事実上帝国に占領されたも同然となり、親帝国派の政治家たちが反帝国派を厳しく弾圧する事態が続いていた。

 不満を抑えきれなくなった反帝国派の貴族が反旗を翻さん、として女の下に駆け込み、庇護を求めたのだった。

 女は答えに窮した。

 反帝国派が次々に粛清されていく世の流れを、むろん女とて良く思ってなどはいなかった。だが、第一位王位継承権者の自分が反帝国派に与力すれば、王国は完全に分裂してしまう。

 なによりもこの時の女には、実の兄である国王が恐ろしかった。

 謀反をたくらんでいるなどと思われれば最後、帝国の言いなりとなった兄は、たとえ血を分けた妹であっても容赦することはないだろう。

 それゆえに。

 女は青年貴族の願いを聞き入れることができなかった。

 丁重に断り、お引取りを願ったその貴族は一月後、政治犯収容所と悪名高い死の塔で拷問を受けたのち処刑され、それ以後反帝国派狩りはより一層激しくなった。

 女の屋敷もまた監視のまなざしが厳しく注がれはじめた。

 誰の目も届かぬ屋敷の隅で、女はただひそかにすすり泣くことしかできなかった。

 不用意に貴族を屋敷に上げたことと、内通者の存在に思い至らなかった自分の迂闊さが、ひとりの若い貴族を死に追いやってしまった。

 その日、女はある決意をした。

 自らが、庇護を求める者たちを保護できる実力がつくまでは、道化という名の仮面をかぶり続けることを。

 不用意に近づいて不幸な目に遭う者がこの先二度と出ないように、誰も寄せ付けないような呪いを自らに掛けることを。

 そしていつか、身に着けた仮面を取り外し、真の力を振るうことを。

 以来、苦節五年。

 仮面を外すことはいまだにかなわぬことのままだ。

 事態はひどくのろのろとしか進まずにいる。このまま道化で終わることになりやしないかと、不安に思うこともある。ただ、少しずつではあったが支えてくれる仲間も増えてきた。

「遅いぞコラ。さっさと着替えろ」

 ばさり、と女の顔面にドレスが乱暴に投げつけられる。

「シケたツラしてんじゃねえ。しゃんとしろ、しゃんと。一世一代の大芝居をやらなきゃなんねえんだからな。腹に力入れて気張りやがれ」

 いつものようにぞんざい極まりない男の言葉遣いに、なぜだか不思議と感じ入るものがあって、女は不意に男の名を呼んだ。

「なんだ、いきなり」

 ひどく面食らっている表情が面白くて女は思わず声を上げて笑った。

 ありがとう、と一言だけ口にした。

 

 

 

  第1章

 

   1

 

 うわさが、広がる。

 風に乗って、加速度をつけて、王都の通りから通りへ。さらに王都から近在の町へと、驚くほどの速さで広がっていく。

 久々に舞い込んだ、人々の心を熱くする小さなお話は、ある場末の酒場での出来事に端を発していた。

 ある夏の夜の王都。

 盛り場街では珍しくはないこととは言え、今日もまた望まざるドスのきいた罵声が響き渡った。

「おい、このクソオヤジ。豚のエサみてえなメシと水みてえな酒を出しといて金を出せとか、どの口がほざいてんだ」

「違いねえ、違いねえ。スラヴェニアのクズどもは腐った肉を喜んで食ういかれたアタマした勘違い野郎だ」

「帝国の偉大さを知らぬ蛮族どもはこれだから困る」

「教育する必要があるか」

「是非もねえなあ」

「やっちまえ」

 帝国の兵士たちは品のない笑みを浮かべ、腰に下げた武器をことさらに見せびらかしながら、無銭飲食を咎めた亭主を取り囲んで殴打した。

「やめろ、他のお客さんの迷惑になる。俺の店で暴れるな……グアア」

 腹を殴られた亭主がもんどりうって倒れ、店にいた客から悲鳴が上がる。

「まだまだウサ晴らしには足らねえな、さてこれからどうやってなぶってやろうか、……んん?」

 リーダー格の兵士がふと、外から聞こえてきた笛の音に気づいて振り返った。

 ばたん、と勢いよく扉が開く。

「な、なんだお前は」

 現れた人物の風体の異様さに、思わず兵士の声がうわずった。

 正体不明の人物は、謝肉祭で使うような奇抜な仮面で顔を隠していた。

 それだけではない。頭には草花を編みこんだ風雅な冠を載せて、そこから滝のように流れ落ちる豊かな金色の髪は、身につけている足元まで隠れるたっぷりとした長さの空色のドレスによく映えていた。背中に蝶の羽に似た薄い極彩色の翼まで生やし、異教の僧が持つような曲がった樫の杖を手にした姿は、しかしどこの祭り装束とも似つかない不思議な気品を漂わせている。

「私は、太古よりこのスラヴェニアの地を守護する風の精霊シルフィード」

 歌うような口調の自己紹介に、兵士たちのみならず酒場中の人々が唖然とした。シルフィードとは、この地に聖十字教が普及する前に信仰されていた神の名だった。

「ひどく騒がしい音がしていましたので、お伺いさせていただきましたの。こちらのラインハルトからのお客様がたがなにやら狼藉を働いたようですね。守護精霊として、そのようなこと、断じて看過するわけに参りません」

 シルフィードと名乗る『精霊』は、手にしていた杖でどん、と床を叩き、大仰な身振りで片手を上げて見えを切る。

「成敗いたします」

 雰囲気に飲まれそうになっていた兵士のリーダーがどうにか反抗する。

「このアマ、なにをごちゃごちゃと、わけのわからんことをくっちゃべりやがる。おめえら、畳んでしまえ」

「おうよ!」

 たちまち屈強な帝国兵士四人がシルフィードに飛びかかった。

 いくら酒が入っていようと、鍛えられた男四人が女ひとり相手に遅れをとることなどそうそう考えられないことだ。スラヴェニア人はバカしかいないから困る。兵士のリーダーは侮蔑の笑みに顔をゆがめた。

 決着は一瞬でついた。

 意識を失って床にごろんと転がったのは帝国軍の兵士四人の方だった。

「な、何をした貴様」

 まさかその杖は魔法の杖とでも言うつもりか。

 あわてて姿勢を低くし、体当たりして浴びせ倒そうと構えた兵士のリーダーを、優雅な足取りで近づいてきたシルフィードの杖が打ち据えた。

「成敗!」

 どすん、と重い音がして大柄な兵士の身体が崩れ落ちた。

 固唾を呑んで事の成り行きを見守っていた客たちから拍手が沸き起こった。

「おケガはありませんか」

 シルフィードが店の亭主を助け起こすと、亭主は床に顔を擦り付けるような勢いで頭を下げた。

「おお神様、精霊様。ご加護をいただきましてありがとうございます、ありがとうございます」

 仮面に隠されていないシルフィードの口元が少しの間微笑んだ。だがすぐに居住まいを正すと、『精霊』はこう語りかけた。

「お聞きなさい、スラヴェニアの民よ。改めて名乗りましょう。私は、スラヴェニアの守護精霊シルフィード。太古よりこの地にありて、生きとし生けるものを見守ってきた者です」

 静まりかえった酒場によく通る滑らかな声がいっぱいに満ちる。

「神の声を伝えます。このスラヴェニアを覆うつらい闇に、そなたたちも長く苦しめられてきたことでしょう。確かにこの地には今なお深い闇が居座っています。しかしその闇がこれより先長く続くことはもはやありません。気を強く持ってお生きなさい。そなたたちを神と父と私たち精霊がいつまでも見守っています」

 そして、もうひとつ、と『精霊』は付け加えた。

「眠れる王はまもなく目覚めますわ」

 それだけ言うとシルフィードは足音も立てずに酒場から出て行った。

 キツネにつままれたような表情で見送った人々が、あわてて『精霊』を追ったが既にどこにも姿を見出せなかった。

 だが、この話は一度では終わらなかった。

 数日後、同じような場末の酒場で、また数日おいて国一番の歓楽街で、あるいは大通りから一本入った細い路地でも。さらには王都を飛び出して近在の町にまでも。

 『精霊』はさまざまな場所に現れては、占領軍を気取って乱暴を働く帝国軍の兵をこらしめ、そして人々にスラヴェニアの夜明けが近いことを告げた。

 いつしか、『精霊』が語ったように長くつらい時間を過ごしてきた人々の顔に少しずつ希望の色が戻り始めた。

「次あたりだなあ、ジョルジオの店にも精霊様がお見えになるのは」

「いやそれは無理だろう。おれの店は帝国軍の兵舎からはいささか距離があるからなあ」

「なんなら銅貨十枚で帝国のやつらを呼び込みしてやるがどうだ」

「いらんよそんなの」

「お前、精霊様見たくないのか」

「いや見たいけど、そこまですることはねえよ」

 しかし、と人々は思う。

 眠れる王、とはいったいどのような意味なのかと。それだけは、誰にもよくわからなかった。

   2

 

「益体もないうわさが市中に広まっているようだな」

 スラヴェニア駐在の帝国軍司令部の一室で高級将校がうっそりと言った。

「その件ですが、内容が穏やかではありません。守護精霊と名乗る人物が市民を扇動しておるようです。あまりいたずらに放置しますと、反帝国感情が市民の間に広がりかねません。ここは早急に捕らえるなどの断固とした対応が肝要かと」

 勢い込んで意見具申した副官に対して、高級将校の反応は鈍い。

「捨て置け。手間と暇の無駄だ」

「しかし」

「まあ落ち着きたまえ。ここにひとつ吉報がある」

 高級将校は一枚の書類を副官に示して見せた。

『枢密院議決は可決確実なり』

 ただその一文だけが書かれた報告文書であった。

 見る間に副官の顔色が変わる。

「なんとまあ、これほど早く片が付くとは思ってもいませんでした」

「同感だな。国というものは傍目には堅固に見えても、一度崩れかければ実にもろいものだ。貧すれば鈍するのまさに見本だよ」

 スラヴェニア女王とラインハルト帝国皇太子の婚姻の可否。

 婚姻が成立することは、ごく近い将来においてスラヴェニア王位をラインハルト皇帝が兼ねることになることを意味しており、王国が実質的に帝国に吸収されることを承諾する議案――。

 それがいま、スラヴェニア王立枢密院において審議されているのだった。

 十年前に戦勝して以来、帝国はスラヴェニアに対しさまざまな権益を確保し、またその拡大を図ってきた。特に王国に対して潜在的な不満を抱くスラヴェニア有力諸侯への働きかけを強めた結果、諸侯の心は少しずつ帝国寄りに傾きつつある。

 当初は難航も予想されていた枢密院の審議が大きな紛糾もなく進んでいる現状は、帝国のスラヴェニア政策関係者の少なくない努力の反映であると言えた。

「軍としては、むしろ次の段階への準備を進める必要がある。ご婚約が本決まりになれば高位の関係者のみが参加する婚約の儀が行われるゆえ、これに際しては多少市中の警備強化は必要であろうが、一方で本国からはいたずらに民衆を刺激するような強硬策はとるなと指示されてもいる。具体的な脅威がさし迫るようなあればこれはむろん断固とした対処を実施するが、現段階ではそれにおよばぬよ」

「さようでしょうか」

「不満か」

「いいえ」

 いまひとつ不安を拭い切れぬ、といった表情の副官に、高級将校は苦笑する。

「われわれに逆らいうる勢力はすでにほぼすべてつぶしつくした。もはやスラヴェニア人は苦し紛れに実現の見込みもないおとぎ話にすがるよりほかない、と。それだけのことだよ。実際市中警備隊からも、残る有力諸侯に張り付けている『目』からもこれといった報告はあがってはおらん」

「自分としては、このような扇動をどこの勢力が仕掛けているのかがいささか気になるところです」

「いまさらこの程度の扇動工作しか仕掛けられぬ勢力など、たかが知れておるさ。しばらくやつらには気分良く実現の可能性のない夢にひたらせておけ。なに、もはやそう長い時間でもない。婚約の儀のあとにはスラヴェニア人どもには情け容赦のない現実がふりかかるのだからな」

 びくり、と副官が身体を震わせた。

「では、やはり」

「ああ、そうだ」

 高級将校の瞳がぎらりと光った。

「忙しくなるぞ。それゆえ、今から準備をしておけ、と言っている。むろん今の段階では命令としては下せぬゆえ、他に気取られぬよう注意を払え」

「はっ」

 敬礼して下がる副官を見送ってから、高級将校はしばし味も素っ気もない殺風景な部屋の天井を見上げた。

 副官にはああ言ったが、気になる点がないわけでもない。扇動の規模が大きいことや、衣装や演出が妙に凝っていることなどは、それなりの規模の組織の関与を疑わせるものだ。そのような組織が今の王都に果たしてあるだろうか。

 もう一点。扇動者は眠れる王とやらが目覚めるなどと、予言めいた言葉を残している。これはどういう意味であるのか。

 王といえば、確かにスラヴェニアには王がいる。もうまもなくラインハルト帝国皇太子との婚約が決まる女王で、名前はヒルデガルダと言った。高級将校も二年前に行われた彼女の戴冠式に参列していたので、どのような人物かはある程度知っているつもりではいたが。

(いや、ありえぬな)

 知っているだけに余計に想像しづらい。食べ物に関しては人並み外れた興味があるようだが、それ以外のことにはまるで関心を示さないような人物だ。女王自らが何かを仕掛けられるような器量があるとは思えない。

 であれば。王とは、女王ではないなにか別の存在を意味するのであろうか。むろん高級将校にはそのような存在に思い当たるものはない。

 いずれにせよ、軍としてなにか出来ることは現段階ではない。その結論に変わりはなかった。

 

   3

 

「おまえな、ちょっと加減しろよな。いくらなんでも派手にやりすぎだろ。帝国の連中がぶちギレたらやくざ屋のひとつやふたつなんて簡単につぶせるんだ」

 王宮の広大な中庭に作られた小さな四阿。会話の声は高くしてはならぬのが決まりだ。

 いまや王宮の中であってすら安全なところはないのだからくれぐれも行動には気をつけろ、と口を酸っぱくして言い続けているのに、この主人は時に断りもなく恐ろしく大胆なことをしでかすから困る。そんなときに限って、当の本人は涼しい顔でとんでもないことを言い返すものだから始末に負えない。

「だってあんまりじゃない。何も悪いことをしていない人々が帝国軍の兵士たちに暴力を振るわれているのよ。あなたは見て見ぬふりをしなさい、と言うのマウリッツ?」

「ああ、そうだと言ったらどうする」

「軽蔑するわ」

「あのな、ヒルダ。よく聞け」

 マウリッツは断固として続けた。

「そもそもスラヴェニアの民が、帝国軍の兵士からいわれのない暴力を受けるのはなぜだと思う?」

「それは、帝国軍の軍規がゆるんでいるから。彼らの意識は占領軍そのものよ。帝国軍司令部も彼らの行動を黙認している上に、内務警察も帝国軍を取り締まれないから被害がどんどん拡大するのよ。何とかして止めないと」

「三十点だな、その回答は」

「なによ、それ」

 首を振ってそう宣告したマウリッツにヒルデガルダは憤激の色を隠さない。

「落ち着け。もっと根本的な要因があるだろう。では本来独立国であるスラヴェニアになぜこんなに帝国軍が駐留しているのかわかるか」

「それは先の敗戦以来、帝国がわが国を圧政をしいた結果、反乱が幾度も起こり、鎮圧のために軍の増派を繰り返したからよ」

「敗戦に際して結ばれた講和条約では、スラヴェニアの政治に帝国が介入することも、軍を派遣することも認めないという条項が入っていた。そもそもスラヴェニア国内に帝国が軍の派遣をすることは条約違反なんだよ。本来はそこをとがめなければならない」

「いまさら条約違反を指摘しても何も変わりはしないわ」

「この問題の起点はそこにあるのだという、意識を持つことが重要だ。逆に言えば、その問題の起点を叩かないかぎりはなにも解決しない、ということでもある。スラヴェニアの正当な王たるおまえが正当な権力を行使することさえできれば、この問題はわりとすぐに解決するお話だということをおれは言いたい」

 ヒルデガルダは納得するどころか、あきれた表情で言い返してきた。

「それができるのなら何も苦労はしないわよ。現実の私は飾りも飾り。すべての物事は親帝国派の一存で決まり、枢密院議長のヴァンゼルト伯爵の起草した法案に私はサインすることしか許されてはいないのに、何をどうやって王の正当な権力とやらを行使したら良いわけ?」

「迂遠なようでも、一番の早道はそうなれるように努めることだ。少なくとも、酒場の用心棒たちに着せるために、風の精霊とやらの衣装を嬉々として縫うのはその早道でもなんでもないからな。それでもどうしても縫いものがしたいと言うつもりなら、花嫁衣装を用意することを勧める」

 ヒルデガルダの表情が微妙なものに変わった。

「マウリッツ。私がいやがっているのを知っていてわざとそういうことを言うのはやめてくれない?」

「残念だったな。恨むなら枢密院のバカどもを恨めよ。おれにやつあたりするのは筋違いだぞ」

「ひどいことを言うのね。他人事だと思って無責任なことを」

「おれは頭のてっぺんから足のつま先まで真面目に言っている」

 今一度、周囲に他に誰もいないことを確かめて、マウリッツはさらに声を低くした。

「おまえはいやがっているけれど、これはまたとないチャンスでもあるんだ。今のおまえは、言い方は悪いが小国スラヴェニアの女王に過ぎない。縁起でもない話だがたとえいまこの時点でおまえがなにかの事故にあったとしても、帝国にとっては特段関わりのない存在だから黙殺するだろう。だが、それが帝国皇太子との婚約が本決まりした後なら話は変わる」

 額に手をあてて少し考え込んだヒルデガルダが疑わしげに問う。

「ラインハルト帝国皇太子妃の称号にそれほどの意味が本当にあるのかしら」

「それはあるとも。未来の帝国皇妃が事故に巻き込まれた、となれば帝国の沽券に関わる事態だ。総力を挙げて対応することは間違いない」

 マウリッツは断言した。そしてわざとしかめっ面を作ってこう続ける。

「もっともその総力具合はだな、こちらの皇太子妃殿下がご主人の心をどれだけつかめるかによっても変わるかもしれないからな。せいぜい気に入られるように頑張ってみることだ。まあ、まだ婚約どまりだから閨房で頑張れとまではさすがのおれでも言わないが」

「マウリッツー!」

 こらえきれずに吹き出した臣下を打擲せんと、伸びてきたヒルデガルダの手をマウリッツはいつものように巧みにかいくぐった。

「こらこら。そうやってすぐに手が出るのは悪い癖だぞ。レディにはとうていふさわしくないな」

「ふーんだ。どうせ私は昔からはねっかえりですよ。閨房での色仕掛けなんてまっぴらごめん。むしろあなたの方が適任ではなくて? 今日も一段とお美しいスカート姿でいらっしゃるわ」

「あのなあ、何度も言うがやりたくて女装やってるわけじゃないんだからな。男が未婚の女王と長時間一緒にいるわけにはいかんから、だ」

「さすがにもう何年もやっているだけあって実に自然ね」

 ほめ言葉を装ったいやみは無視することにしてマウリッツは最後にひとつ、と切り出した。

「さっきも言ったがこれ以上帝国を刺激するような真似をするのはやめろよ。しばらく我慢の日々になるだろうがくれぐれも軽挙妄動はしないように」

 不承不承といった感じでヒルデガルダはうなずいた。

「わかっているわ。耐えることも仕事のうちってことは」

「しばらく領地に戻る。こちらに帰るのは今からだと、おそらく婚約の儀の直前になるだろうな」

「せいぜいお馬鹿な女王様を気取ることにします」

 それでいい。首肯してマウリッツはスカートをつまみ、腰を曲げて貴婦人の拝礼をした。庭園の四阿から退出しようとしたところで後ろから声がかかる。

「どうでもいいんだけど、マウリッツ」

 いやな予感がした。

「なんだ」

 案の定のおねだりポーズが見えてげんなりする。

「精霊様の衣装なんだけど、すごく気に入っているのにまだ一回しか着てないの。今夜だけでいいから……もう一回着てもいい?」

 困ったことに、とマウリッツは思う。交渉のセンスは悪くないんだよな。使いどころを間違っている気はするが。

「おれが却下したところで行くつもりだろ。今晩だけならそれとなくおれの配下をつけてやれる。くれぐれも捕まるなよ。もし捕まったらおれもさじ投げるからな」

 甘いと思いながら瞬時に最善策を示してやると、よほど嬉しかったのか女王は四阿を飛び出さんばかりの勢いでマウリッツに抱きついた。

「マウリッツ、ありがとう、ありがとう」

「痛い痛い痛い。この阿呆、だから加減というものを少しは覚えろ」

 国民から敬愛される王になる資格はあるとは思う。問題はその素質を発揮する機会を作れるかどうか。そのための道筋は考えてはいたが、どこまでうまくいくかはまだマウリッツにもわからなかった。

 

 

 

  第2章

 

   1

 

 北国に短い夏が訪れたころ、ついにスラヴェニア王立枢密院は議案を可決し、女王とラインハルト帝国皇太子との婚約を承認したうえでこれを全土に布告した。

 スラヴェニアに駐在する帝国軍が懸念していた民衆の反発はほとんどなく、わずかにごく小規模な暴動が王国北部のいくつかの都市で起こるにとどまり、帝国首脳部も胸をなでおろす結果となった。

 とはいえ、これでもって正式な婚約がなったわけではない。

 大陸全体の風習として、婚約は聖十字教会の祭司の立会いの下で宣誓を行い、このときに作成される宣誓書へのサインが終わってはじめて成立するものとみなされていた。

 この宣誓書は、後日婚姻を役所に届ける際に必ず提出しなければならなかったため、一般の市民であっても簡単な婚約式を行うのが当時の通例であった。

 現代では結婚式内のプログラムに組み込んでしまっている場合がほとんどであるが、この時代には、例えば日本において婚約段階の儀式である結納と結婚式の間に一定の期間をおくのと同様の感覚で、婚約式と結婚式をわけて執り行うのが一般的であった。

 王侯貴族ともなると、この婚約式も、庶民のように二人で教会に行ってすませるわけにはいかない。あくまで内々の者のみで、という但し書きこそつけど、式典の規模は庶民の結婚式並みかそれ以上のものになる。

 ゆえに。

 スラヴェニア式部省はてんてこ舞いの忙しさとなった。

 国教会の祭司との式次第に関する打ち合わせ、来賓となる伯爵以上の高位貴族への招待状の作成および発送、女王の衣装の手配、晩餐会のメニューの選定、ラインハルト帝国側の式部省との打ち合わせや当日の市中警備の段取りに至るまでやらなければならないことは無数にある。

 なによりも時間がなかった。枢密院の議決が出るのをよほど待ちかねていたのか、ラインハルト側が示した準備期間は当初たったの二週間だった。いくら小国とはいえ、国の端にある領地まで招待状が届くまでには最短でも片道三日ないし五日を要することを考えればあまりにも短く、交渉の結果一ヶ月で落ち着いた。

 それでもこの種の祭礼の準備期間としては充分な期間とはいえなかった。国の威信がかかる式だというのに無理難題を押し付ける帝国に対しては、式部省の官僚だけではなくあちらこちらで不満の声が上がった。

「百人からいる招待客向けの食材の調達だって簡単な話ではないのだがな」

 式部省の役人と頭をつき合わせて唸っているのは、王宮の厨房を一手に取り仕切る料理長だった。

「しかも季節が夏なのが余計に面倒だ。一番食材が日持ちせぬ季節ゆえ、足の早いものは使えぬときている」

 渋面を浮かべた料理長の前に、式部省の役人がおずおずと一枚の紙を差し出す。

「なんだこれは」

「追い討ちをかけるようで、その、申し訳ないのですが、なにとぞご寛恕いただきたく……」

 ラインハルト帝国皇太子殿下がお召し上がりになれないもの一覧、という表題が大書された文書にずらりとならんだ食材の多さに、料理長は卒倒しそうになった。

「まさかとは思うが、これを全部使わずにフルコースを準備せよとのたまうのか」

「帝国よりの申し入れです」

「ふざけた国だな」

 吐き捨てるように言って、料理長は伸びたあごひげをなでた。

「わが国の女王陛下のなんとすばらしいことか。口さがない世間はあれこれ言うが、こと食に関してはあのお方は本当によくわかっていらっしゃる」

「私も耳にいたしましたが、その、馬鈴薯という作物を広められたのは陛下だと」

「違いない。即位なさる前から所領で研究・栽培なされていたそうだ。わが国の気候や地質によく適応し、しかも栄養価が高い。飢饉対策にはこれ以上ない食べ物だと力説しておられたくらいだよ」

「なんと、栽培までなさっていたとは」

「もともと並みの男以上によく召し上がるお方だからな。食べることには人一倍のご関心があるのさ。それに引き換え今度やって来る征服帝のドラ息子はなんだこれは」

 料理長は、憤懣やるかたないと言った風情で椅子を蹴るように立ち上がった。

「悪いが、早急に帝国側に問い合わせて、この手の晩餐会で皇太子殿下がどんなものを食されていたのか聞いてくれ。これではとてもメニューなど考えられぬゆえ」

「わかりました、なんとか聞き出してみます」

 言い捨てて、料理長は厨房に戻った。

 この厨房で料理長は、即位以来ほとんど王宮から出かけることがなく、判で押したような毎日を過ごしている女王のことを慮って、日々変化のある、見た目を楽しませるような料理を日夜研究していた。

 今の時間はちょうど昼食が整った時間だった。

「うん、いいだろう」

 部下に作らせていた女王の昼食の仕上がりを確認して、料理長はうなずいた。

 問題がないと判断すると給仕の女官が呼ばれて女王の部屋へと配膳されるのだ。

 往々にして高貴な方々には食べ物の好き嫌いが付き物だが、女王に関しては全くそういうこともなく、皿はいつもきれいに平らげられている。

 彼にとっては実に腕の振るい甲斐がある主人だった。

 この日も戻ってきた皿は一枚残らずきれいだった。

「ご苦労さん。そこに置いていてくれていい」

 下げた皿を手にした女官にそう声をかけた料理長は、一拍おいて飛び上がった。

「こ、これは陛下。大変失礼をいたしました」

 エプロン姿の王宮の主はひらひらと手を振って笑った。

「いいの、いいの。押しかけているのはこちらなのですから。いつもありがとう、料理長。今日も美味しくいただきましたわ」

「はっ。お褒めにあずかり、恐悦至極に存じます」

「お仕事中に邪魔するようで申し訳ないのですけど、少しだけ厨房の隅を使わせていただいても良いかしら。どうしても試してみたい料理があるの」

 大きな声では言えないが、こうしてごくたまに女王自らが厨房にお運びになることがあるのだった。むろん是非などあろうはずもない。

「すぐに準備させます」

 直ちに料理長は部下に指示をした。

 身分が天と地ほども違う厨房の下働きたちにも親しげに声を掛ける女王の姿を見るにつれ、どうにも料理長は違和感を禁じえなかった。世間で聞こえている女王の評判と、目の前の光景に見る女王の様子とがあまりにも違っているがゆえに。

 俺たちは俺たちの仕事をするだけだ。

 料理長は余計な雑念を追い払うと、仕事へと頭を切り替えた。

 

   2

 

「本国より、皇太子殿下の護衛として一万の軍勢を仕立てる、との連絡があった」

「護衛名目で一万とは強弁にもほどがありませんか」

「未来の帝国皇帝をお守りする軍勢だ。多すぎることはなにもない」

 スラヴェニア駐在帝国軍司令部では極秘の作戦会議が開かれていた。

 現在王国内に展開している帝国軍部隊が総計二万三千。この上にさらに一万を増派すれば三万人以上もの軍勢が小国スラヴェニアに集結することとなる。軍事大国として名を馳せるラインハルト帝国にとってもこの数は全軍の半数近くに及ぶ数であり、間違っても少ないとはいえない規模である。

 スラヴェニア女王とラインハルト帝国皇太子の婚約の儀が間近に迫って来てはいたが、もはやスラヴェニア情勢の極端な悪化は考えにくい局面であり、事態が少々変化したところで二万もの軍勢があれば充分対処可能であるはずなのに帝国がこのような増派に踏み切った真の理由は、スラヴェニアにはもはやなかった。

 征服帝ランカスターが目を向けているのはスラヴェニアではなく、その先にある国――すなわち、自由都市商業同盟だった。

 スラヴェニアの北西に位置し、海港都市として栄える首都アルメールとその周辺のほか、北方に散在する諸島を領有する商業国家であり、国土こそ限られるものの豊富な船と商人を擁して貿易によって莫大な富を築き上げていた。

 大陸西部の諸国がはるか西にあるという新大陸に競って進出し、さまざまな文物を持ち帰りはじめたことに帝国は大いに刺激されていた。内陸国たる帝国が海洋に進出するためにはまずは海への出口を持たないことには話にならない。

 スラヴェニアの占領、ないし合併はそのための第一段階に過ぎなかった。

 帝国の国内情勢もあり、第一段階であるスラヴェニアを手にするために思わぬ時間がかかってしまってはいたが、見方を変えればかえってそれも磐石の態勢で第二段階たる自由都市商業同盟との戦いにあたれるようになった、と考えられなくもなかった。

 そう。まもなく帝都より下る皇太子はただスラヴェニア女王との婚約のために王都へと赴くのではなかった。むしろそれはもはや名目とすら言えないこともない。

 皇太子は、自由都市商業同盟との戦いの総指揮官としてまずはスラヴェニアに派遣され、女王との婚約式が終わり次第、直ちに三万の軍を発して一気に同盟の首都へと攻めあがり、これを占領する。

 帝国軍のマスタープランはそのようなものであった。

 この恐るべき数の大軍が動くとなれば、その動きを隠し通すことはまず困難であり、情報に強い自由都市商業同盟側に観測されることは必然と言える。

 だが、それがわかったところで同盟には対抗の方法がなかった。

 海軍こそ強大で知られていたが、陸軍は弱卒であり、そもそも人口が少ないために軍の大半を傭兵が占めている。急を知って金で傭兵をかき集めたとしてもようやっと万に届くレベルに過ぎぬとの見方が帝国軍には支配的だった。

「三倍の兵をもってただただ踏み潰す。これ以上ないくらい明確でシンプルな戦略を貫徹すれば勝利は見えてくる。小賢しい策など弄するだけ無駄であろう」

「三万もの兵を一度に行軍させては機動力・展開力に柔軟を欠きます。スラヴェニアと同盟の国境までは兵を分けて進軍させるのが良いかと」

「進軍に使えるまともな道路が一本しかありません。突貫工事で二本目を作らせておりますが、開戦に間に合うかは予断を許しません」

「最も怖いのは、進軍の段になって背後をスラヴェニア諸侯の反乱軍に衝かれることです。対策が必要かと」

「その点は全く心配ない。反乱するような気骨ある諸侯はもう残ってはおらんし、よしんば反乱しようにも、やつらは婚約式の招待を受けて王都に集まっておるゆえ、領地の軍勢とは連絡を取れぬ。どうすることもできんよ」

 解決すべき課題こそあれ、帝国軍の戦略を覆すような脅威はどこにも見当たらない。

 高級将校は満足げな表情で会議室の面々を見渡した。

「大軍ゆえに行軍速度に遅滞が生じる件については、小官に腹案がある」

 広げられた地図の一点を指し示しながら、高級将校は続けた。

「スラヴェニアの北西に位置する、ハールラム辺境伯領の主都ランツに向けて数次に分けてあらかじめ先遣隊を送り込んでおくのだ。このランツから先は道路事情も悪くないゆえに、大軍の行動にも支障がない。どうかね諸君」

「は。妙案ではありますが、ハールラム辺境伯の協力が不可欠になるかと」

「むろんのことだ。彼とは既に小官が直接交渉しているところだ。まだ途上ではあるが全面的な協力を取り付けられると確信している」

「同盟と国境を接しておきながら、わが帝国に組するとは感心しませんなあ」

 参謀の発言に、高級将校は首を振った。

「それは逆だろう。国境を接しているからこそ、ハールラム辺境伯は同盟に対して含むものが多くあるのだろう」

「勝ち馬に乗った方が得策、という判断ですかね」

「彼がそう考えるくらいには、わが帝国の戦力と同盟のそれとの間に開きがあるということだな」

「ではハールラム辺境伯との交渉がまとまれば」

「この案で手筈を整えてくれるかな」

「はっ」

 主に戦後の条件面での折り合いがまだついていなかった。予想していたよりもハールラム辺境伯はいささか強欲だったが、まだ若い当主の青年が口を歪めて王国や同盟から虐げられている現状を延々と語る様子を見た限り、少しばかり金を積めば交渉をまとめられる実感が高級将校にはあった。

 むしろ戦功を焦るあまり、各部隊が協調しないような事態を警戒して対策を打っておくことの方が必要かもしれんな。

 そのための有効な策はないものか、と高級将校は頭をめぐらせるのだった。

 

   3

 

 領内のあちらこちらで槌音が高く響いている。

 戦が近いことを、民はその独特の嗅覚で感じ取っているのか、工具を握るその手にも力をこめているようだった。

 嵐に抗おうとする人々の意思を漏れ聞いたような気がして、マウリッツは背筋が伸びる思いでそれを受け止める。民の思いに領主の自分がどこまで寄り添えているのか、このちっぽけな身はどのように働けば良いのか。

 家屋を補強する作業中の町人の姿を横目に見ながら、残念ながらその思いに応えることは出来そうもないな、と自嘲する。

 この町は戦場になる。

 せいぜいパニックを起こさないような形で穏やかに避難を呼びかけるよりほか、自分には取れる道はないだろう。時間さえあればヒルデガルダと話したように『帝国皇太子妃』を誘拐する計画を実行して帝国の動きを止める手が使えたが、帝国軍の作戦の性急さがそれを許しそうにない。もう一つの案を取るしかなかった。

 だが、これはより博打要素が強く、最悪の場合はこの城塞都市が戦禍に巻き込まれることになる。この町の領主としては出来れば取りたくはない道だった。

 傭兵の形で微行中のマウリッツは、腹ごしらえでもするつもりか小汚い一品料理屋を見つけるとふらふらと中に入っていく。

「シュニッツェルと、麦酒をくれ」

 なりは悪いが、早くて安くてうまい店である。カウンター席ばかりの狭い店内には既に早めの昼食に訪れた者たちで混雑している。空いていた席に腰を下ろし、マウリッツはふう、と息を吐いた。

「しばらくぶりだな」

 隣の席の男から声がかかる。座っていてもそれとはっきりわかる大男だった。

「ああ、呼びたてて悪かった、ハインダル」

 出てきた麦酒を呷りながら、マウリッツは答えた。

「閣下もずいぶんと気を揉んでいらっしゃるぞ。お前が同盟に向けて戦端を開くんじゃないかってな」

「まあ確かにな。いっそのこと帝国と共に攻めあがるのも悪くないな」

 にやにやとしまりのない顔を向けてみると、ハインダルは吹き出した。

「その顔を見て少し安心したぜ。半分くらい用は済んだ気がするな」

「そうかい。ではこっちの用だが」

 ハインダルもまた汚らしい用心棒のような格好をしていたが、正体は同盟の有力貴族の息子だった。今は実家の海運業の経営に携わっているが、五年ほど前まではちょうどマウリッツが留学していた同盟の商業学校に通っていた同窓生で、そのとき以来の再会である。

 もっともマウリッツの領地は、王国内にいくつかある同盟との国境沿いの領地のひとつであり、ゆえに同盟とは歴史的にもつながりが深く、もともと人々の往来も激しい地域だ。ハインダルとも何度か手紙とのやりとりはあったので、それほど久しぶりという感はなかった。

「潜在的反帝国派に働きかけて味方になるように説得しろ、だと? 簡単に言ってくれるがそいつは容易なことじゃないぞ」

「容易でないのは百も承知だ。ついでに言うなら婚約の儀に際しては、伯爵以上の領主は招待という名目で王都に軟禁される。貴族が抱えている兵力はあてにできない」

「なおのこと厳しいじゃないか。どの勢力にどう働きかけろと」

 マウリッツは麦酒をもう一杯注文して豚肉の揚げ物とともに胃袋に流し込んだ。

「市民に立ってもらうしかないさ。帝国支配が始まって以来、特に王国北部では重税がかけられ、反発する者はしょっぴかれ、ひどい有様だ。彼らを焚きつけて、武器を横流ししてやれば反乱は必ず起こる。それだけの素地はある」

「よその国で内乱を扇動しろとか、さらりと恐ろしいことを言いやがって。そりゃまあ出来なくはないだろうが、そのくらいはお前にだって出来るんじゃないのか」

「あいにくと宮仕えのこの身は窮屈でね」

 マウリッツは薄く笑った。

「立場上あまり帝国に目をつけられるのもよろしくないのでね、ここはぜひとも自由都市商業同盟の機動力におすがりしたい」

「勘弁してくれよなあ。うちだってまだ帝国から宣戦されたわけじゃねえし、あんまりおおっぴらに動くわけにはいかねえぞ」

「遅かれ早かれ帝国が攻めてくるのは間違いが無いんだ。今のうちから準備しておけばいくらかでも楽になるだろう。スラヴェニアでの扇動がうまくいけばいくほど、同盟の勝ち目も増えるんだ。スラヴェニアで起きた今までの反乱は兵力も武装も貧弱だったゆえ、とうてい帝国軍に勝つ目がなかったが、同盟が背後についてその海運力で武器を供給してやればどうだ。帝国軍の後背を衝ける勢力が生まれると言っても過言ではない」

「むう」

 ハインダルが唸った。

「こうなればさしもの帝国と言えども、対同盟にばかり兵力を向けるわけには行かなくなる。三万の兵のうち、一万ばかりは反乱軍に割かれる。残り二万のうち一万は」

 マウリッツの顔色がどす黒く染まった。地獄の悪魔ですらかくや、という表情にハインダルも思わず息を飲む。

「当家が、引き受ける」

「……まさかおまえ、あれをやるつもりか」

「それ以外に帝国と渡り合える道筋を、おれは考え付かんかった」

 血を吐くような物言いのマウリッツの瞳に涙が浮かんだ。ハンカチで目元をぬぐう同窓生にいくばくかは同情の念を覚えたか、ハインダルがマウリッツの背を叩いた。

「いいだろう。そちらがそこまでの覚悟でいるのならこちらも相応の仕事をせねばならんな。内乱の扇動は引き受けた。商人の国には商人の国の戦い方があるということを帝国に見せてやるよ」

「頼む」

 マウリッツはすがるような目でハインダルを見上げた。だが相手の表情はいたずらっぽい笑みにあふれている。

「とはいえだな、内乱を起こせるくらいの扇動と武器の供給となれば、工作費としてはちょっとしたもんだ。うちの国の利害にも関わるゆえ全額とは言わんが、半額はそっち持ちでお願いしたいな」

「おまえな、国が滅ぶか滅ばないかの瀬戸際で金勘定の話なんぞ持ちだすんじゃねえ。大体知らないとは言わせないぞ、うちの帳簿が真っ赤っ赤なのを」

「それは重々承知だ。今すぐ払えとか極悪なことを言うつもりはない。ツケにしといてやる」

「おまえから金を借りると、死ぬまで借金漬けにされそうで怖いんだよな」

 ひどいことを言いやがって、とハインダルはマウリッツを小突いた。

「ああ、どうしても借金にしたくないというのなら、情報料で払ってくれてもいいが、どうだ?」

「うん? 構わんが、うちから情報大国のそちらに売れるような話があるとも思わないがな。いったいなんの情報が欲しい?」

 マウリッツの耳元にハインダルが口を近づけた。

「なに、たいした話ではないさ。お前の弟がいまどこで何をしているかを聞かせてくれんかなあ、と思ってだな」

「おれの弟?」

 マウリッツには男の兄弟はいない。何の話なのか見えずに首をかしげながら答える。

「いや、心当たりはないな。そもそもおれには弟はいない」

「では質問を変えるぞ。おれとおまえが商業学校を卒業したあとにだ、おまえの紹介状を持った、おまえの弟を名乗る人物が商業学校に入学して一年ばかり在学しているんだ。おまえの弟でないとしたら、あれは誰だ」

 しまった、と思ったがもう遅い。昔作った偽の身分証のことをすっかり忘れていた。

 してやったり、とばかりにハインダルがにやにやと笑う。

「大方の見当はついてはいるのだが、おまえの口から裏付けが欲しいのだよ。それを言ってくれれば、工作費は全額うちが持っても良い。どうだ。悪くない条件だろう?」

 マウリッツは観念してハインダルに白状した。莞爾として笑う大男に背を向け、マウリッツはさらにもう一杯の麦酒を注文する。

「おれにももう一杯頼む」

 なみなみと、あふれんばかりに注がれた黄金色のグラスが二人の前に並んだ。

「では、自由都市商業同盟とスラヴェニア王国の末永い発展を祈って乾杯だ」

 グラスの当たる音とともにほろ苦い液体をマウリッツは呷った。

「そう腐るなよ。良い方じゃないか。なかなかに才気煥発な。スラヴェニアの将来は明るいな。わが国も安心して投資出来ようというもんだ」

「くそ、もうおまえの誘導尋問には二度と乗らねえからな」

 勝ち誇った笑みにやつあたりしつつ、マウリッツは王都にいる女王が今なにをしているだろうか、と思った。

 

   4

 

 王都へと向かう街道を、雲霞のごとき帝国軍の隊列が埋め尽くしていた。

 総勢一万を数える軍勢は、街道の幅に限りがあるために縦に長く長く伸び、今の単位で言えば全長はおよそ数キロメートルにもおよんだ。

 人々は、必要以上に華美な装飾を施した軍勢に眉をひそめつつも、ただただ息を殺してその通過を待つしかなかった。

 スラヴェニア王国はなくなるんだってさ。これからはラインハルト帝国の一部になるんだって。

 それは、人々が物知りな事情通から聞いたうわさがどうやら事実である、と認識せざるをえない光景だった。

 国の支配者が変わろうとも、人々の生活が変わるわけではない。とはいえ、ラインハルト帝国の治世がスラヴェニア王国のそれと比べて良くなるかどうかについては、すでに多くの人々の中でかなり大きな疑問符が付いていた。

 何よりも帝国は戦争を始めようとしている。

 もはや疑いようもない帝国の動きに人々は不安を隠せない。だが、この大きな動きを止められる対抗勢力の姿は、人々の前にはいまだ現れてはいなかった。

 ある者は教会に赴いて祈りをささげ、またある者は家財道具をまとめ始めた。ある者は少し前からぱたりと止んだ精霊の降臨を天に願い、またある者は精霊の予言を反芻しては『王の目覚め』を待ち望んだ。

 一部の者は不安に耐えられなくなり、街に出て暴徒と化したが、帝国軍に演習の的を提供したに過ぎず、結果はいつも無残なものに終わった。

 その帝国軍の進軍と時を同じくして、王国各地の伯爵以上の諸侯もまた、女王と皇太子の婚約の儀に参加するために馬車で領地を発ち始めた。この際、諸侯の随従の人員については厳しく指示があり、一定以上の人員を随行させてはならないとされた。

 だが、これは特に反帝国派と思われる貴族に対する処置であり、親帝国派の諸侯は王都の警備の任につくという名目でかなり大きな軍勢を率いた者すらいたから、完全に反帝国派の封じ込め策以外の何物でもなかった。

 例えば枢密院議長のヴァンゼルト伯爵は三千もの軍勢を引き連れて王都に上った。その中には伯爵が特に精鋭として鍛えた狙撃銃部隊も含まれていた。

 また、ハールラム辺境伯も五百の軍勢を従えて王都に到着し、特に許されて在スラヴェニア帝国軍司令部での作戦会議に参加している。

 日が経つにつれて、情勢はいよいよ緊迫の度合いを高めていった。

 王族と皇族の婚約の儀、という言葉の華やかさとは裏腹に、王都に祝賀ムードなどは全く生まれず、むしろそれは帝国軍の作戦開始を意味するきな臭さを帯びて、人々の不安をより一層煽り立てるようだった。

 ただただ、固唾を呑んで見守り続ける不気味な停滞が澱のように王都を覆い、いよいよ迫った儀式に暗い影を投げかけていた。

 そんな折りも折りに――。

「ごめんください」

 王都の場末にある小さな酒場兼宿屋に、似つかわしくない軽やかな声が吹き込んだ。

 主人はびくり、と珍獣でも見かけたかのような目で入ってきた若い女を見た。行商か何かだろうか。重そうな荷物を背中いっぱいに背負っている。

「しばらく泊まりたいんですけど、部屋空いてますか?」

「空いてはいるが、お世辞にもきれいだとは言えん。それでもよければ用意できるが」

「じゃあ、それでお願いします」

 ジョルジオという名の宿の主人は、女に宿帳への記入を求めた。

 女はすらすらと流麗な字でヒルダ、と記した。

 

 

 

 

  第3章

 

   1

 

 王宮の前には既に多数の馬車が止まっていた。

 夏場とはいえ、北国の安定しない天気ゆえにどんよりと曇ることも多いのだが、珍しく強い日差しが宮殿に降り注いでいる。

 婚約の儀を言祝ぐような天候にも、メリスラット伯爵シュラルド=ゴイトルークの心は晴れなかった。この婚約の儀の後に戦争が始まるといううわさは、田舎貴族の身にもしっかり届いていた。それもよりによって、自領のすぐ近くの、自由都市商業同盟を攻めるのだという。とんでもないことだ、と憤ってみてもそこは田舎貴族の悲しさ。抵抗するすべとてなく、ただただ招待されるがままに王都に来て儀式に参集するよりほかなかった。

 王宮前広場の決められた停止位置に馬車を止めさせて、シュラルドは降り支度を始めた。

 馬車のステップを降りかけると、ちょうど隣の停止位置にも別の馬車が入ってくるところだった。隣の領主、ハールラム辺境伯の馬車だ。シュラルドの馬車より数段大きく豪華であり、その権勢のほどがうかがい知れた。

 帝国からの覚えが良いとこうも違うのか、と冷めた思いでシュラルドは見つめる。なにをどう間違えたのか、彼はいつのまにか親帝国派の急先鋒になっていて、帝国の進める戦争遂行に積極的に協力しているのだった。

 子供のころは一番近い他領ということで、一緒に遊んだりしたこともあったのになんという変わりようだろう。

「やあ、これはこれはメリスラット伯爵」

 ごてごてと着飾った男がひどく気取ったポーズでシュラルドに呼びかける。シュラルドは悲しくなった。

「ごきげんよう、ハールラム辺境伯。帝国人の足をお舐めになるのが上達したようでなによりですね」

「ふふん、世情も読めない田舎者の皮肉ほどみっともないものはないな。命が惜しかったら帝国に対する批判はやめておいた方が利口だぞ」

「あいにくですが僕は愛国者です。誰かとは違って死んだって帝国の金魚の糞に身を落とすつもりはありません」

 憤然と言い放つと、シュラルドは式典会場へ歩き出した。

 スラヴェニア女王とラインハルト皇太子の婚約といい、自由都市商業同盟との戦争といい、これほど国のためにならないことにこぞって賛成する親帝国派貴族の心の内が、シュラルドには全く理解できない。それとも彼らは帝国からの金に目がくらんで国を売ってしまったのだろうか。

「困ったものですなハールラム辺境伯にも。以前はあんなお人ではなかったように記憶しているのですがね。どう思われますかメリスラット伯爵?」

「これは、ウブリック侯爵。お久しぶりです」

 最初の会場である王宮付属の礼拝堂へと続く廊下でシュラルドに声を掛けてきたのは、今や王国北東部で唯一の反帝国派貴族とされるウブリック侯爵だった。年齢は六十歳を過ぎていて、諸侯の中でもっとも高齢な人物のひとりだった。

「あの男とは幼きころからの付き合いがありますが、その私にも今のハールラム辺境伯の姿には納得がいきません。あのようなことをしでかすようには見えなかったのに、残念でなりません」

 本当に、とウブリック侯爵も肩を落とす。

「こう言ってはなんですがね、反帝国派の主だった方々はもうことごとく捕まっては処刑されてしまい、私のようななんの役にも立たない力のない者だけがまるでさらし者のように残されているばかり。ただ、それでも私は思うのですよ。果たして本当にスラヴェニア貴族は完全に帝国に屈してしまったのか、と」

「侯爵……」

「年寄りの繰言だと思ってお付き合いいただけるか。私はいつか必ずや、有力な方が立ち上がり帝国を誅してくれると、そう信じています。いかに帝国の弾圧が苛烈であろうと、いや苛烈であればあるほど、胸に反発の火を秘めてそのときを待っている若い方々が必ずいるはずだと。メリスラット伯爵。あなたはまだ若い。あなたひとりでは無理かもしれないが、反撃ののろしが上がったときはこの老いぼれに替わってぜひとも駆けつけて、スラヴェニアを救っていただきたい!」

 やや感情が激してきた侯爵をなだめるように、シュラルドは静かに言った。

「私とてスラヴェニアの騎士のはしくれです、侯爵。そのときが来れば必ずやお国のために働いてご覧にいれましょう」

「かたじけない」

 深々と頭を下げた侯爵の目に光るものがあった。

「メリスラット伯爵。さらなる繰言を許していただけるか」

「なんでありましょうか」

「いや、私の領地で不思議なうわさが広まっているのです。ご存知のように私の領地にも帝国軍が少しばかり駐留しておりましてな、きゃつらが夜な夜な街の酒場で飲んでは狼藉を働くことを繰り返しておって、ほとほと手を焼いておりました。するとある日のこと、精霊と名乗る者が酒場に現れて……」

「そのうわさ、侯爵のところでも流れているのですか」

「なんと伯爵もご存知だったか」

「精霊は、最後に謎めいた予言を残していくのですよね」

「さよう。『王の目覚めは近い』と。私はやはり、この予言の『王』とはそのものずばりを意味しているのではないかと考えておるのですよ」

「そのものずばりとは?」

「むろん、わがヒルデガルダ女王陛下その人に他なりません」

 シュラルド自身ももちろんそう考えてみたことはあった。ただ、どうしても女王が『目覚めた』姿というものをいまひとつうまく思い浮かべることが出来ない。

 まだそれなら、子供のころ友だったハールラム辺境伯が目覚めた姿を見てみたいとシュラルドは思った。そうなれば。あるいはこの世の中をひっくり返すことだって可能ではないだろうか。

 そろそろ儀式の時間が迫っていた。シュラルドはウブリック侯爵を促して、礼拝堂への道を急いだ。

 

 

 

   2

 

 礼拝堂のオルガンが静かな調べを奏でる中、婚約の儀の最も主要な式典である宣誓式は厳かに執り行われ、ラインハルト帝国皇太子とスラヴェニア王国女王が神への誓いを唱和したのち、宣誓書へふたりのサインが並べられて無事に婚約が成立した。

 国教会の祭司の手によって、高く掲げられた宣誓書に記された二つのサインが見えると、来賓席からは低い声が漏れると同時に割れんばかりの拍手が巻き起こった。

 それそのものは、非常に感動的な光景であり、反帝国派であっても素直に祝福を送りたくなるような力にあふれていた。すらりと背の高い偉丈夫であり、顔立ちもくっきりした美男子たる皇太子クリストフ殿下と並んだヒルデガルダ女王の姿は、意外なことに全く迫力負けすることなく君主としての存在感を示していて、シュラルドも思わず背筋を正したくらいだった。平服に近い装いの婚約式でこれほどであるとは、いざ結婚式になればどれほどの輝きを放つことだろうか。

 シュラルドの期待はしかし、儀式の進行とともに徐々に裏切られていった。

 礼儀作法の間違いがひどく多い。

 婚約、と言うべきところを、何をどう間違えたのか混浴、と言い放った時には帝国貴族の列席者のみならず、スラヴェニアの貴族たちですらくすくすとしのび笑いを漏らす有様で、シュラルドはいたたまれない思いで眺めた。国の体面とはかように些細のことでも簡単に傷ついてしまうものなのか。なんともったいない話だろうか。

 諸々執り行われた儀式の数々が終わり、いよいよ晩餐会が始まろうとしていたが、ここでさらに皇太子と女王の差が決定的に広がった。

 招待客が全員席に着いたところで、この儀式を取り仕切ったスラヴェニア王国式部省長官のあいさつ、ラインハルト帝国側の代表を務めるスラヴェニア駐在の帝国大使のあいさつが続いた。

 それに続いたのはクリストフ皇太子の答礼であった。

 座席からすっくと、かつ洗練された動作で立ち上がり、壇上へと進み出た。

「われらの婚約の儀に参集した諸卿よ。此度は誠に大儀であった」

 演説慣れしているのか、晩餐会場の大広間に朗々たる声が響き渡った。

「過ぎし日において干戈を交えた両国の人心は、いまだ完全たる和合には至らず、改めて臣民の心傷の深さに余は胸ふさぐ思いである」

 演説の内容は真摯なものだった。目を背けようと思えば背けられるであろう、戦勝国と敗戦国の不幸な関係にあえて触れて、遺憾の意を表するとともに、あくまでスラヴェニアの主権は今後ともスラヴェニアにあることを宣言し、自分は女王を支えて国を盛り立て、そして帝国との架け橋になる決意を格調高くよどみなく訴えた。

 さすがにあの征服帝の子だけはある、と誰しもに思わせるものがあった。

 これほどのあいさつは、わが女王陛下にはとても無理だ。

 クリストフ皇太子へ盛大な拍手が送られる中で、シュラルドは絶望的な思いだった。

 案の定、誰が配慮したか女王の答礼は行われなかった。

 当の女王は、と言えばただ席に座ってひどく手持ち無沙汰な様子で、早く晩餐が始まらないかと待ちくたびれているようにも見える。

 主君ひとりの才覚でどうにかなるようなものではなかったかもしれないが、とシュラルドは思わずにはいられない。もしも女王陛下がクリストフ皇太子殿下のごとき才覚を有していたとしたら、あるいはスラヴェニアと帝国の関係は今とは全く違ったものになっていたのではないかと。

 枢密院議長であるヴァンゼルト伯爵によって乾杯の音頭が取られ、いよいよ晩餐会が始まった。

 楽士の演奏が始まり、まずは各テーブルに前菜が配膳される。さすがに王宮の晩餐会の料理とあって豪華なものが振舞われた。

 ローストされた鶏肉の周りを、パプリカをはじめとする色とりどりの野菜が取り囲んだ前菜は見た目も華やかで王国の夏を表現しているかのようだ。

 クリストフ皇太子は食事もそこそこに、これより臣下となるスラヴェニア貴族のテーブルを回って酒を注ぎがてら、一言ずつ言葉を交わし始めていた。一方のわが女王陛下はもはやいうまでもないだろうが、自席で食事に大忙しだった。またしてもシュラルドは言い知れぬ落差を突きつけられた感を覚えた。

「お名前を頂戴してもよろしいかな」

 そう。このさっそうとテーブルの間に現れたクリストフ皇太子。口惜しいことだが、これこそが王者に求められるべき風格。

「はっ。自分はメリスラット領をお預かりしております伯爵、シュラルド=ゴイトルークと申します」

「ふむ。メリスラットと言うと、スラヴェニア北西、自由都市商業同盟との国境沿いの要衝であるな。私も微力ながらヒルデガルダ女王陛下のもとで働かさせていただく。よしなに願おう」

「ははっ」

 お互いにグラスにワインを注ぎあって乾杯するちょうどそのときであったから、シュラルドは気づくのが遅れた。

 だが、それがそうであると気づいた者は、ただひとりの例外を除けば、誰ひとりこの晩餐会場にはいなかったに違いない。

 座席から立ち上がったその人はドレスの上からエプロンを身につけると、女官に耳打ちしてあらかじめ用意してあったものを持って来させた。

 今。まさに。

 女王は目覚めようとしていた。

 

   3

 

 最初に異変に気づいたのはウブリック侯爵だった。

 前菜の皿が取り下げられ、スープが配膳されてきた段になって、侯爵はしばし目を瞬いた。あってはならないものが見えた気がしたが、最近とみに視力の衰えを感じる身でもあり、見間違えであると思った。このような式典でかような不吉なものを幻視するとは、自分はどうかしている。

 そう思った瞬間。何かが手の上に載る感触があった。背筋に悪寒をもたらすような生々しい感触におそるおそる目を近づけた。

「ぎゃあああ」

 侯爵は恐怖のあまり、椅子から転げ落ちるように倒れた。

「どうなさいました、ウブリック侯」

「もしやお加減を悪くされたのでは」

「すぐに医師を呼べ」

 高齢の侯爵の異変に周囲の人々が駆け寄ったが、なにが起こったのかは皆わからないでいた。侯爵が気絶してしまっていたためだった。

 会場内が今度は別のことでざわつきはじめる。

「なんと」

「これは女王陛下」

 何もしないことで有名なヒルデガルダ女王の姿に人々は驚嘆の声をあげた。

 ドレスの上からエプロンを身につけ、まるで召使であるかのようにかいがいしく動き回っては各テーブルにスープを配膳していたからだった。

「ほう、これは」

「あるいは皇太子殿下に触発されてのご行動であるのやもしれませぬな」

「早くもここで夫唱婦随の光景が見られるとは。女王陛下も皇太子殿下の薫陶を受けられれば、きっとお変わりになりますこと」

 いっとき、人々は女王に見た変化の兆しに、この国の未来への希望を重ね合わせた。

 それがいま、この瞬間に目覚めようとしている悪夢に気づくこともなく――。

 何かが砕ける音がした。

 それが皿の割れた音だと、気づいた人々が振り返ってそれを見た。

 投げつけられたスープ皿が招待客のテーブルに命中していた。

 およそ宮廷料理にふさわしくないような、なにを煮込んだものやらわからないスープの中身が散乱し、白いテーブルクロスを血の花のような色に紅く紅く染めてゆく。

 具材の隙間から、ぬめり気のある黒く細長い何かがまろび出てきて、機敏にテーブルの上を駆け始めるのがわかったとき。

 ほとばしる大音響が、人々の耳朶を打った。

 主賓席から漏れ出た悲鳴だと気づいた貴族たちが顔を上げると。

 狂気と恐怖が、そこに仲良く並んでいるのが見えた。

 ヒルデガルダ女王は笑っていた。

 なにかに侵されたような、無邪気な瞳を皇太子に向けて。

 だが皇太子はその微笑みに応じることはなかった。

「……ひい、スープにト、ト、トカゲが入っておる」

 先ほどまでのさっそうとした姿からは想像もつかない、変わり果てた表情でやっとそれだけを口にした。

 あまりの恐怖に耐えられなくなったからか、まもなく口から泡を吹きながら椅子ごとばったりと倒れた。

 そのころには貴族たちのテーブルに配膳されたスープからも、悪魔の化身として忌み嫌われる生き物が這い出して、不幸な人々の手をちろりと舐めたものだからたまらない。

 恐怖が、瞬く間に会場全体に伝染した。

 悲鳴があちらこちらで上がり、晩餐会場から一目散に逃げ出そうとした人々が出入口へと轟音とともに殺到した。

 もはやそこに貴族の礼節なるものはなかった。

 物が壊れる音と、人々の悲鳴が場内をどよもして止まない。

 椅子はおろか、テーブルまでもがひっくり返り、照明のシャンデリアは床に落ちて砕け、室内が闇に包まれた。

 出口を求めて狂奔する人波が扉にかじりついた。

 だが、押せども引けども、扉が開く気配はない。

「扉を開けろ」

「早くしろ」

「押すな押すな」

「痛い痛い」

「みな落ち着け。落ち着くのだ」

「誰か、明かりを持て」

「殿下を、誰か殿下をお救いしろ」

 男も女も。

 スラヴェニア人もラインハルト人も。

 全てが巨大な海の大渦に放り込まれてしまったかのような、名状しがたい混乱が打ち続くさなかに。

 ついにその声が闇に響き渡った。

「動くな!」

 瞬間、声の主を照らすように暗闇に明かりがぱっと浮かんだ。

「そなたらはなにを、そのようにうろたえておるか」

 底冷えのする声がして、人々はさらなるありえざる光景に瞠目した。

 なにかが、その人の首元でうごめいている。頭の上をなにかが駆け、肩の上でなにかが跳ねた。それもどれも一匹どころではない、二匹、三匹、四匹――。

「ぎゃああああ!」

「ひいいいっ!」

 それは、その正体に気づいた貴族たちが何人か失神するほどの迫力、だった。

 ドレスを宝石で飾った貴婦人は数多くいたであろう。

 だが、いまだかつて、ヘビとカエルとトカゲでその衣装を彩った女王がこの世にいたであろうか。

「ヘビが恐ろしいか。カエルが怖いか。トカゲは悪魔の化身か。断じて言おう、否であると」

 人々がたじろぐほどの音声で女王が吠えた。

「そなたらがこれほどまでの醜態を晒して忌み嫌うものを、民は先の飢饉のみぎりに、命をつなぐため口にせざるをえなんだ。税として、そなたらに牛も豚も鶏も持っていかれ、もはや他に食べるものがなくなった者たちの、言わばこれらは最後の砦であったのだ。それをそなたらは下等な生き物と蔑んだ挙句、いたずらに恐れてばかりいる」

 言葉を切るなり、女王は首元でとぐろを巻いていたヘビを手にとって、貴族たちの群れに向かって投げつけた。人垣が割れ、またしても悲鳴が上がる。

「民とてヘビやカエルやトカゲを好きで食しているわけではない。食せるものならば牛や豚や鶏を腹いっぱい食したいに決まっておる。そのような民の気持ちを慮らずしこたま税をむしり取り、あまつさえ帝国とともに侵略戦争の準備にいそしむなどという、領主の風上にもおけぬ振る舞い。妾はもはや座視するに耐えぬ」

 暗闇の中の貴族たちを舐めるように視線を動かして、女王は続けた。

「そなたらを禁足する」

 どこからともなく現れた黒衣の者たちが貴族たちに襲い掛かり、手際よく拘禁していくのを誰もが信じられぬ思いで見つめていた。

「そして、いまこの時をもって。わがスラヴェニア王国はラインハルト帝国に対し、宣戦を布告する。――マウリッツ?」

 高らかな宣言とともに、女王の横にひとりの男が滑るように現れた。

「ハールラム辺境伯から、帝国の皆さんにお知らせがある。たいしたことではないが、ハールラムに駐留していた帝国の先遣隊一万は壊滅した。些細な話ゆえ繰り返すのもなんだが、ハールラムの帝国軍は壊滅した。ついでに言うのなら、王都の帝国軍駐屯地をたったいまから攻撃しているので、結果がわかり次第お伝えしよう」

 先ほどまでの騒ぎが嘘のように静まり返った場内を、マウリッツの乾いた声が淡々と響いた。誰しもが事態の急変に理解が追いつかない、といった風情で声を上げるものすらいなかった。

 やりやがった。

 シェラルドもまた口の中でそうつぶやくよりほかは、なにも考えられずにいた。

 

 

 

   4

 

 ハールラム領内に駐留していた帝国軍の先遣隊は、皇太子と女王の婚約の儀が行われる前日の夜半に、ハールラム辺境伯マウリッツ=アッターベルグの率いる軍勢の襲撃を受けた。

 帝国軍の上層部からも特に信頼を受けていた親帝国派の筆頭貴族が突如離反するとは、さすがの帝国軍にとっても完全に予想外の出来事であった。

 ハールラム主都ランツの郊外に造成されていた駐屯地は、あらかじめ潜ませてあった手の者によりたっぷりと宿舎に油をまかれたあと、放火され、それが火薬に燃え移り爆発を引き起こした。ごく少数の見張りを除いてほとんどの兵が寝静まっていた刻限の出来事ゆえに、帝国軍は抵抗らしい抵抗も出来ないままに火の海に巻き込まれ、一万もの軍勢の大多数が焼死ないし爆死するなどして、文字通り壊滅した。

 さらにこれと時を同じくして、王都郊外にある、かつて女王が暮らしていた離宮に潜ませていた軍勢が王都へ向けて進軍を開始し、さも婚約の儀の最中の市中警備の任にあたるようなそぶりを見せながら、王都に着く直前に矛先を変えて帝国軍司令部のある駐屯地を急襲したのであった。

 帝国軍総計三万三千といえども一カ所にまとまっているわけではなく、スラヴェニア国内各地に細かく隊を作って分駐させていたために、王都にいる帝国軍の数は八千そこそこといったところであった。しかもその大半は市中警備にあたっていたために、駐屯地そのものにいた兵の数は少なく、なお悪いことに位の高い指揮官クラスの者はほぼ全員が婚約の儀に出席していて不在だったこともあり、突発的な事態によく対応できなかった。

 戦闘が始まって一刻と立たないうちに帝国軍司令部はあっけなく陥落することとなった。さらに、婚約の儀に出席していた軍幹部は王宮で拘束されたため、スラヴェニア国内の帝国軍はこの時点で組織的行動がとれなくなった。

 マウリッツの事実上のクーデターはここまで完璧な成功を収めたと言ってよかった。

 しかもその手中には帝国との交渉において、切り札となりうる皇太子を確保しており、女王との婚約破棄はおろか、全帝国軍の王国内からの撤兵すら要求しえた。

 だが。それほどの窮地に陥ってなお、帝国はスラヴェニアを手放すつもりはなかった。自由都市商業同盟への侵攻の計画も破棄しなかった。

 なによりも帝国皇帝、征服帝ランカスターがこの報に激怒していた。

 皇帝は直ちに二万もの軍勢の増派を即決し、さらに人質となっている皇太子については、

「煮るなり焼くなり好きにさせよ」

と、言い放った上、皇太子の身分を剥奪して庶子に落とすことで、スラヴェニアの要求を呑むつもりがないことを内外に喧伝した。

 この皇帝の強気姿勢がスラヴェニア諸侯に与えた影響は極めて甚大であった。

 マウリッツの予想に反して、反帝国派に鞍替えする諸侯がほとんど現れず、事態の流れを見極めようと様子見を決め込む者が続出した。

 たまりかねたように、女王自らが諸侯たちの説得に足を運んだが、結果は芳しくなかった。女王の行動を評価する諸侯もいたが、婚約の儀におけるそのあまりにも貴族的規範から外れた振る舞いは、大多数の貴族たちには気が触れているようにしか見えなかったために、支持を取り付けるには至らなかったのだ。

 マウリッツの配下の手によって王都周辺にいた帝国軍の武装解除こそ進んだものの、地方に残存している帝国軍が一万五千、本国から増派された二万をあわせるとその数実に三万五千。これにさらに帝国に与する諸侯の軍が加わる。対する反帝国派はマウリッツが借りた傭兵をあわせても万にすら届かぬ。

 電撃的な奇襲策が取れた緒戦と異なり、正面からぶつかり合う会戦となれば四倍近い兵力の差をひっくり返すのは絶望的と言っていい。

 王都の後背を衝くことを期待して、ハインダルに依頼していた民衆への内乱工作もここまで目立った成果を上げられていなかった。反帝国派への弾圧が続いたことで民衆も萎縮していて、蜂起しようという者がなかなか現れなかった。立ち上がろうとする指導者クラスの人材は、帝国がにらんだようにすでに払底していたのだった。

 増派された帝国軍の進軍が始まったところでさらに悪いことが起きる。

 王宮で拘束されていたヴァンゼルト伯爵が、配下の兵の手によってついに脱出に成功し、三千もの兵を指揮して反帝国派に襲いかかったのである。

 帝国との親交も深く、早くから軍制を改革していたヴァンゼルト伯爵の兵は王国最強との呼び声も高い。対して傭兵中心でかつ事態の長期化により疲弊も見えた反帝国派はこの攻撃で一気に壊乱。ヴァンゼルト伯爵は王都はおろか王宮までも取り戻すことに成功するに至った。

 やむなく、マウリッツは女王をともなって王宮から遁走する。様子見していた諸侯たちもさすがにこれで決まったと感じたのか、ヴァンゼルト伯爵のもとに馳せ参じる者が多数現れた。

 帝国のスラヴェニア支配が始まって以来、最大規模の反乱はあえなく終わりを迎えた、と誰もが思った。

 首謀者マウリッツと女王を追討する軍が組織され、王宮前でヴァンゼルト伯爵と帝国軍司令官の閲兵を受けた上で、数回に分けて王都を順次出発。親帝国派と帝国軍を合わせて総勢四万というスラヴェニア始まって以来の大軍が、事態の終結に向けて街道を西へと進み始めたのだった。

 女王が捕らえられた、という真偽不明の情報が流れたのはちょうどこのころであった。本当かどうかは誰にもわからなかったが、近いうちにそうなるであろうことは、もはや疑いの余地もなくなっていた。

 

 

 

 

  第4章

 

   1

 

 うわさが、広がる。

 風に乗って、加速度をつけて、王都の通りから通りへ。さらに王都から近在の町へと、驚くほどの速さで広がっていく。

 人々の顔色はおしなべて暗い。帝国への反乱を企てた女王が捕らえられ、まもなく処刑されるのだという話を聞いて明るく振る舞え、というのはどだい無理な話だった。

 スラヴェニア北東部にある小さな町の酒場でも、人々がやるせない気分をもてあましていた。

「まだ二十歳になるかならないかの若い娘っこをだ、よってたかってくびり殺そうとかする貴族どもの神経はどうかしているぜ」

「乱暴な帝国の兵士を追い出そうとされたのでしょう? それに失敗したということは、まだまだもっともっと悪い帝国の兵士がやって来るのね。恐ろしいわ」

「戦死したり暗殺されたり処刑されたり。そんなことで王が変わるのはもういい加減にしてくれよ」

「帝国兵がうちの国にやってくる度に税金が上がっていってるんだ。このままじゃあいよいよ冬を越せなくなる」

「ヘビやカエルやトカゲを食ってなんとか耐えた村もあるらしい」

「それだけどな、おまえさん、聞いたかい?」

「なんだい」

「そのヘビやカエルやトカゲをだな、女王様は貴族たちに向かって投げつけたんだとさ」

「本当かよ。いったい全体なにがあってそんなことになったんだよ」

「なんでも女王様がトカゲ入りのスープを作って、貴族たちに食わせようとしたらしいんだよ。もちろん貴族たちはそんな気持ちの悪いもの食えるか、って大騒ぎしたそうだ。それを見た女王様が、おまえたちが高い税をかけるから民はこんなものしか食えねえんだよ、文句があるなら税を安くして見せろ、と一喝したらしいんだわ」

「ほほう、なんだ。泣かせるね。その女王様はなかなかいい王様じゃねえか、ちくしょうめ」

「そんないい王様をだな、貴族の連中は処刑してしまおうとしてやがる」

「おお、神よ。女王陛下を護りたまえ」

 酒場のカウンター席に腰掛けてひとり黙々と酒を飲んでいた大男が、やおら客たちの方を向いて口を開いた。

「残念だが、祈ってるだけじゃあ女王様は処刑されちまうぜ」

 見覚えのない男だった。酒場の天井に頭をぶつけそうなくらいの上背の持ち主が急に饒舌に語り始めた。

「帝国はまだ戦争を続けるつもりでいる。戦争には金も食糧も馬鹿みたいにかかる。税は間違いなく上がるさ。それも一回だけじゃあない。あいつらは別段スラヴェニア人が何人死のうがなんとも思っちゃいねえ。このままいけばまだまだ税金が上がって、払えなくなった者から死んでいくことになる」

「冗談じゃねえよ、これ以上税金あげられたら干乾しになっちまう。なんとかならねえのかよ」

「方法はひとつだけある、と言ったらおまえさんたちはどうする?」

「決まってるじゃねえか。それをやるしかねえだろう」

 大男がにこりと笑った。背丈があるのに笑うと奇妙なくらいの愛嬌があった。

「では、町を上げてちょっくらピクニックに出かけてもらえるかな」

「はあ? ピクニックだあ? おまえなにを言っているんだ」

「行き先は王都だ」

 おいこら、と客たちが大男を怒鳴りあげた。

「ここから王都まで何日かかると思ってやがる」

「大人の男の足で四、五日はかかるだろう」

「そんな遠いところに行ってなにになる」

「王都を処刑に反対する民で埋め尽くすんだ。最低でも五万人、できるものなら十万人、多ければ多いほど帝国軍は圧力を感じることになる」

「おまえ、それは反乱を起こせということじゃないのか。無理だよ。帝国軍に楯突いた連中は、みな物言わぬ姿となって帰ってきたんだ」

 恐れをなした顔で言いつのる客に、大男は首を振った。

「別に武器を持って立ち上がれ、とはおれは言っていない。民ひとりひとりはちっぽけな存在かもしれないが、武器を持たない民であっても十万も集まればその力はどんな精鋭の軍だって恐れるくらいのものになる。なによりも帝国についている貴族たちが考え直す。よほど度胸のあるやつじゃない限り、この数の力には恐怖を覚えるものさ」

「それはそうかもしれないが」

 客の一人が肩をすくめた。

「おれたちは一日一日生きていくだけで精一杯でね、とてもそんなところまで旅をする余裕なんてないんだよ」

 大男はふたたびにっこりと笑った。

「うん。もちろんただで行け、なんて無茶は言わないぜ。日当としてひとりあたり大銀貨三枚は出すし、街道はうちの隊商が常に見張っているから野盗に遭う心配も要らない」

「だ、大銀貨三枚だと」

 当時の一般的な労働者の日当の三倍の金額を出すと言い張った大男に、誰もが驚きあきれた。

「あんた、どこの何者だ」

「おれの名はハインダル。自由都市商業同盟の商人だ」

「同盟の商売人がなぜこのおれたちにそんなことをする?」

「簡単な話さ。いまスラヴェニアが踏ん張ってくれなきゃ、次に困るのはおれたちなんでね」

 にわかに外が騒がしくなったかと思うと、どたどたと複数の男たちが酒場に入ってきた。客たちは振り返り、そして目を丸くする。

「エシュデのイマートに、リューネのベルマーじゃねえか。なんでおまえらこんなところに」

 言いかけて客の男は気づいた。唐突に現れた隣村の顔見知りがいつもとは違う格好をしていることに。長旅に備えた旅装であるのがわかってその意味を悟る。

「まさか、おまえら」

「ああ。王都に行く」

 こともなげに言い切った隣村の男たちが微妙な表情の客の男を見て、不機嫌そうに一言付け加える。

「このままでは冬を越せそうにない。それだけが理由だ。決して大銀貨三枚の日当に目がくらんだとか、そんなんじゃあないからな」

「どうみたって目がくらんどるだろうが」

「うるさいわい」

 こらえきれずに客の男は吹き出した。

「おいらみたいな農夫が王都なんぞに行ってなんの役にたつのかたたないのか、正直いまでもよくわからねえよ。ただなあ、おいらは、これ以上人がばたばた死んでいく世の中が続くのはもうごめんだ。家族が死ぬのも、村のやつが死ぬのも、女王様が死ぬのも勘弁して欲しい。それを訴えに行くくらいならできるかもしれん、とそう思った」

 いつもは騒がしい酒場が、いつしかぴたりと静まり返っていた。

「さて、どうする。こっちとしてはひとりでも多く来てもらえるとありがたいんだがね。ハインダルが言うには、人は集まれば集まるほど安全になるそうだからな」

 客の男は酒場の人々を見渡し、その意思を汲み取った。それに後押しされて決断する。

「いいだろう。おれたちも王都に行こう。何を準備すればいい?」

 

   2

 

 強弁と言われるかもしれないが、現状は想定の範囲内である。

 部下にはそのように説明していたし、市民に対してもマウリッツはそのように演説した。ハールラム主都ランツはそれ自体が大規模な要塞であり、しかも帝国軍の同盟侵攻の拠点として以前から戦争への準備が行われていたゆえに、籠城戦になったところでやすやすと落ちたりなどはしない。

 ぐるりと、合計四万もの兵でもって主都を取り囲んだ帝国軍と親帝国派諸侯も、現在のところ目立った攻勢に出る気配はなかった。無理に攻めても一方的に損害を被るだけだと彼らもわかっているから、あくまで持久戦の構えであり、いざとなればスラヴェニアの厳しい冬の間をも包囲を続けるつもりだろうか、新たに兵舎を大々的に建設するなど陣地の構築にも余念がない。

 この戦いが死命を決するのはなにもマウリッツだけではない。スラヴェニアという国そのものの帰趨がかかっている。そしてそれは相手のラインハルト帝国とて同じなのであった。いかに帝国の国力といえども、総兵力の七割以上を長期間他国に派兵し続けるのは容易なことではない。帝国があてにしていたであろう、街道沿いに作られていた補給のための基地はマウリッツが王都からランツまで撤退する際にすべて破壊したから、補給線ひとつとっても再構築が必要になる。

 婚礼の儀からわずか一月あまりで万難を排してランツまで寄せてきた帝国軍の組織力には感嘆するべきものはあるが、実際のところはそれなり以上に無理を押してやって来ていることを、帝国軍の内情を知るマウリッツは知っていた。

 こうなれば、あとはもう意地の張り合いである。

 攻める側、守る側、それぞれに抱える問題をいかに小さくしていけるか。

 両軍が見守る中、使者の旗を掲げた騎士に誘導されて、決裂するための会談を持つべく、マウリッツは用意された天幕の中に入った。

 形式ばった降伏勧告などやるだけ無駄だろうにと思うが、敵の事実上の大将がこうして出てきた以上、応じざるを得なかった。むっつりとした表情で勧められた椅子に腰を下ろしたところで相手が口火を切った。

「大失敗でしたね、ハールラム辺境伯」

 心底残念そうな表情でこちらを見るヴァンゼルト伯爵の口角が上がっていた。いやな兆候だった。

「意外かもしれないが、こちらとしてはこれでも想定の範囲内でね。あんたが何ヶ月も包囲戦をやる気なのかどうかは知らないが、あんな粗末な兵舎ではハールラムの冬はとうてい越せない。ばたばたと兵が冬将軍に召される前にお帰りになった方が賢明だよ、ヴァンゼルト伯爵」

 軽く挑発してみたがもちろん伯爵は動じたりはしない。

「残念ですな。われわれは冬将軍の来着を待つほど無為に過ごすつもりもない。事態をよくご存知ないようだから申し上げよう。先日、わが配下の者が先のスラヴェニア女王ヒルデガルダを逮捕したという知らせを受けたものでしてね、いかがですかな辺境伯」

「不敬だぞ伯爵」

 マウリッツは目を三角にして見せた。

「あんたが誰を僭王に仕立て上げたのかは知らんが、ヒルデガルダ女王陛下はいまだ唯一無二のスラヴェニアの君主であらせられる」

「国難の折にあって、あのような奇矯な振る舞いをする主君を戴かざるを得なかった結果が、このわが国の現状を招いたのですよ」

「まだ在位わずか二年あまりの主君に責任を押し付けるのか。しかもめいっぱい帝国の侵略に加担しておいてどの口でスラヴェニアの国難を語る」

 いまこの場で伯爵を殴り倒せるものならそうしたい。マウリッツは思わずこぶしを握り締めた。伯爵はあくまで静かに続けた。

「わがスラヴェニアは十年前、国策を誤り国力数倍のラインハルト帝国と戦端を開いた。自衛のための戦争という美名のもとで勝てる見込みも、道筋も描くことの出来ない状態でただただ戦い、そして敗れた。その結果、わがヴァンゼルト領内を含め戦場になったスラヴェニア南部の各領がどれほど荒廃したかを、まだ若いあなたはご覧になったことはないでしょう。復興に向けて、王国中枢に窮状を訴えても一向に対策が打たれないまま現在に至っています。むしろ南部各諸侯に手を差し伸べたのは、不倶戴天の敵であるはずの帝国だったのですよ」

「それは単に帝国の調略だろう」

「調略だろうとなんであろうと、南部諸侯は自助努力でどうにかなる状況ではなかったのです。その状況を漫然と放置するような王国に忠誠を誓えとおっしゃるのはあまりにも酷な話ではないですか、ハールラム辺境伯。騎士道精神に悖るとかいろいろ言われていますがね、われわれにはそれしか道がなかった。それだけはご理解いただきたい」

「その結果、こうしていいように帝国の連中にこき使われているのでは世話はないな」

 あきれた顔でマウリッツは言った。

 戦争の後、苦しかったのはどこの領主とて同じことだ。戦場になった南部については同情すべきところはあれど、結果的に帝国に加担して再度戦争に手を染めているようでは領地の復興もなにもあったものではない。

「少し話が逸れましたがね、ハールラム辺境伯。もう一度言いますがわれわれはあなたが主君として仰ぐ女を預かっています。私がなにか一言命じればどうなるかおわかりですよね、もちろん。ああ、いまさら人質は卑怯だとか寝言は言わないでくださいよ。だいたいあなただって人質を使ったでしょう。もっともランカスター帝に人質作戦は分が悪いですが」

 内心の焦りはむろん押し隠して、マウリッツは平然と言い放つ。

「あいにくだが、このおれもランカスター帝並みに性格が悪いのでね、人質を盾になにか要求されても応じかねる。降伏しろとか言い出すつもりならおれにはその気はない」

「これはこれは。主君への忠義を果たさぬとは騎士の風上にもおけませんな」

「自らの命のために帝国軍に降れと命令する者を主君にもった覚えはない。あんたと違っておれはあいつとはいささか長いつきあいでね、こんなところで降伏すればあいつには死ぬまで口を聞いてもらえないだろうさ」

 マウリッツは椅子を蹴って立ち上がった。

「話はそれだけか? ならば帰らせてもらおう」

 背を向けて出て行こうとしたマウリッツに伯爵が一言付け加えた。

「ハールラム辺境伯」

「なんだ」

「後悔しますよ、その選択は。ランツの城門前に女の首が晒される日が来る前にお考え直された方がよろしい」

「あいつを先に死なすような真似はしないさ。その前に帝国に与した裏切り者の首をあげるまで」

「世迷いごとを言われる。それほど望むのなら合計四万の兵の威力をたっぷりとご覧に入れましょう」

「存分になされよ」

 言い捨ててマウリッツは天幕を出た。

 これでいい。

 自らを奮い立たせるように、マウリッツは思った。

 ヴァンゼルト伯爵の言葉は完全にはったりと言うわけでもなさそうだ。やはり予定通りランツまで連れて来るべきだったか。歯噛みする思いで必死に善後策を考える。

 ヒルデガルダ女王とは、王都から脱出するおりに別れた。

 一番安全なマウリッツの領地に身柄を移す計画に、彼女が首を縦に振らなかったためだった。

「もうこれ以上、わたしは王としての自分を偽って過ごしたくはないのです」

 まっすぐにマウリッツを見据えて、彼女はそう言ったのだった。

「この十年間、スラヴェニアは王に恵まれませんでした。諸侯たちももはや自国の王には期待していません。それどころか、むしろ帝国の皇帝に下った方が良いことがあるとすら思っています。上に立つ君主がしっかりとしていないから、王国はここまでばらばらになってしまいました。マウリッツ、わたしはやはりもっと早くに愚鈍の仮面を外すべきでしたね。そうすればもう少し諸侯たちも聞いてくれたかもしれません」

 おまえのせいじゃない、下手に早くから出来の良いところを見せていればおまえの命はもうなかっただろう、とマウリッツはかばったが女王は首を振った。

「王には、王にしか出来ない仕事があります。もっと早くにわたしはそれを為すべきでした。それを為さずに、わたしはジャガイモを育てたり、商人になろうとして同盟に留学したり、帝国軍の行いに腹を立てて風の精霊の衣装を縫ったりしていました。馬鹿です。あなたが言ったように正統な王が正当な権力をどうすれば行使できるかを、わたしはもっと考えるべきでした」

 ですから、と女王は続けた。

「いまからわたしはそれを為します」

 一度言い出したらなにを言っても聞かない性格は、こんな場面でも変わらない。

 必死に説得を繰り返したが、頑として意思を曲げない女王にまたしてもマウリッツが折れることになった。

 やむなく手勢をつけると言ったのだが、それも目立つからやめて欲しいと拒否され、あろうことかマウリッツは女王をひとり、危険だらけの王都に残して領地に帰ることになったのだった。

 それとなく動向を監視して欲しい、と同盟の商人たちにハインダルを通じてお願いはしておいたが、それもある時を境にぷっつりと連絡が途絶えてしまっていた。単に商人たちが見失ったのであれば良いが、捕らえられてしまった可能性はゼロとは言い切れない。

 やはり強引にでも馬車に乗せて連れて来るのだった。

 珍しく、マウリッツは後悔の念にとらわれた。

 こうなればなんとしてでも自由都市商業同盟に参戦してもらい、一刻も早く事態を打開せねばならない。

 ことここに至ってもいまだ帝国に対して直接宣戦はしていない同盟を、なんとか説き伏せようと伝書鳩による書簡のやりとりをマウリッツは繰り返していたが、まだ同盟から色よい返事はもらえていなかった。

 切れるカードはなにかないだろうか。考えろ。考えるんだ、マウリッツ。

 自己を懸命に鼓舞しながら、しかしマウリッツの頭はいつものようには回転しないでいた。

 

 

   3

 

 大河エーメルの河口、大きく幅の広がった川の中央に浮かぶ中州に築かれているのは、自由都市商業同盟の首都アルメールである。大陸からつながる橋は一本もなく、町に入るためには渡し舟に乗る必要があり、また町の中をも無数の水路が入り組んでいて、やはり船がなければ移動もままならないという、世界でもまれな水上都市だった。

 王政ではなく、共和制を取るこの国家は、総督という官名の元首をトップとしてその下には元老院という名の議会が組織されている点でも当時の世界では異例の存在だった。

 その総督の官邸に、ひとりの客が訪れたのは、ラインハルト帝国がスラヴェニア王国のハールラム領へ軍を進めてからしばらくたった後のことだった。

 自由都市商業同盟の総督・ヘルムート=エルディラムは、フェルバッハ子爵・グスティン=シュトローネと名乗った客人の顔を一瞥して、はて、と首をかしげた。

 隣国の主だった貴族の名とその所領をおおむね諳んじることが出来る総督にも、フェルバッハという土地とその地を領有する貴族に心当たりはない。素性の知れぬ者といちいち面会していては時間がいくらあっても足らないので、配下に追い返すように命じているのにどうしたことだ。

 話を聞くふりをして適当なところで切り上げようと、そう考えた総督に対して貴族が口を開いた。

「ご多忙の折にこのような席を設けていただきましたことを、大変ありがたいことと感謝いたします、エルディラム総督閣下。本日はスラヴェニアとの関税につきましてお話をさせていただきたく存じます」

「関税の話?」

 予想外の話題に総督は戸惑った。

「はい。現在わが国と貴国の国境には関所が設けられ、特にここを通過する商人に対して通行税という形で高率の関税を掛けております。これがために貴国の商人がわが国で活動することを阻害しているのは閣下もご承知のことかと存じます」

 続けるように総督はうながす。

「わが国はこれを段階的に引き下げたいと考えています。またこれと同時にスラヴェニア国内にある各諸侯が領内に設けている関所においても、無秩序に高額な関税を掛けているところが散見されますが、これについても見直しを行い、最終的には国内の関所を全て廃止する予定です」

「ほほう」

 総督は目を丸くした。

「実現されればわが国にとってはなかなか魅力あるご提案だが、では貴卿はわが国にどのような見返りを望まれるかな」

「おそれながら、ラインハルト帝国およびスラヴェニア王国内の、帝国に与する諸侯への融資を一時的に停止することをお願いしたいのです」

「なんと」

 総督は驚きのあまり、何度か咳き込んだ。

「貴卿は無茶を申される。わが国は各商人に自由な経済活動を認めているのだ。何の理由もなく一方的に帝国向け融資だけを国権をもって停止するなど国是に反することだ」

 貴族は穏やかに反論を述べた。

「帝国軍はいま、わが国のハールラム領に侵攻しランツを包囲しています。万が一ランツが落ちれば、帝国は次に同盟に対してその牙をむくのは明らかです。その時になってから帝国向けの融資を停止しても手遅れです。今ならまだ帝国はランツを攻略できていません。このタイミングであれば帝国と諸侯は戦費の調達に苦しみ、包囲戦のさなかで軍を維持できなくなることでしょう」

「ふうむ、しかしな」

 総督は渋面を作った。

「わが国にとってリスクは小さくない。融資を止めたあげく、融資先が貸し倒れることになってはかえって損害が大きくなる。さらに言えば見返りとなるスラヴェニアの関税改革、国内の関所廃止が滞りなく進むかについては大いに疑問だな。貴卿は反帝国派の立場から発言されているが、そもそも今のスラヴェニアはほぼ親帝国派一色に染まっている。しかも女王も行方がわからないと聞いた。このうえで反帝国派がふたたび政権に返り咲けると予想するのは、負けが込んだ博打打ちのすることだよ」

 そう言って総督は席を立ち、舶来品の挽き立てのコーヒー豆に湯を入れて貴族に勧めた。自らの手でコーヒー豆を挽くのが総督のちょっとした趣味だった。

「コーヒーはいける口かね」

 おしいただくようにしてカップを口元に持っていく貴族の姿に総督は思わず問うた。

「ええ。学生時代はこちらに留学していましたので。そのころから大好きです。もっともいまだにスラヴェニアではこの黒い液体を奇異の目で見る人が多いですが」

「なるほど。まだスラヴェニアではコーヒーは珍しいのか。関税さえ下がれば、商売のタネにはなりそうだ」

 破顔して総督もコーヒーを喫する。

「反帝国派の貴卿ならハールラム辺境伯とは縁があると思うが、彼からも頻繁に書簡が届いていてね。だがどうも内容がいけない。しきりにわが国に対して帝国に宣戦せよ、とばかり書き送ってくる。戦況はあまりよくなさそうだな」

「ハールラム辺境伯が、ですか」

 貴族の表情がさっ、と曇る。

「冷たいようだがこの私も一国を預かる身。味方したいのはやまやまだが、川と海に囲まれたこの町は見た目以上に守りは堅牢でね、帝国がもくろんでいるような単純な陸戦だけでは攻め落とすことはできない。確かに大陸側の領土こそ占領されるかもしれないが、わが国内部ではそこから反攻しても遅くはないという考えが支配的でね。いまだ帝国から宣戦布告もないのに、なにもいま急いで無理にハールラムまで打って出る必要を感じてはおらぬゆえ、おいそれと兵は出せないのだよ。まあしかしだね」

 総督は貴族を励ますように付け加えた。

「実現性はともかく、関税の件については面白い話だと思う。フェルバッハ子爵殿。ここまで来て貴卿を手ぶらで帰すのも申し訳ないのでね、なにかもう少し担保をいただけるのならば、帝国からの融資引き上げについては検討してみてもいい。どうかね」

 しばらくの間、貴族は困惑しているような表情を浮かべていた。

 それが突然、なにか意を決したのか、奇妙なまでにそのたたずまいが変化した。

「わかりました。ではこちらを担保として提供します。お納めください」

 立ち上がった貴族の手から何かが落ちた。

 それがカツラだと気づいたその瞬間、思わず総督は言葉を失った。

「いかがでしょう」

 問われた言葉もそぞろ心には届かぬ。呆けたように総督はしばし居すくんでいた。

 

   4

 

 苦しい戦いが続いていた。

 メリスラット伯爵シュラルド=ゴイトルークは、恐ろしげな風切り音とともに着弾する砲弾を忌々しげに眺めていた。

 敵陣に大砲が到着して以来、ランツ城には間断のない砲撃に晒されていた。当世一流の要塞だけはあって分厚い土壁に跳ね返される弾がほとんどだったが、時折こうして飛び込んでくるものは城下町の建物に容赦なく穴を開ける威力があった。

 ずっとただ攻撃を受け続けているだけでは士気が下がるばかりだから、シュラルドはマウリッツに特に志願しては城外に打って出る攻撃隊長を務めていた。夜陰に乗じて城を出て、敵陣に一斉射撃を仕掛けた後騎兵突撃を敢行する戦法で、単純だがそれなりの効果を発揮していた。

 だが、いかんせん敵の数が多すぎる。戦果を上げても一向に堪える様子もない帝国軍に対し、兵たちの間ではかえって徒労感が漂い始めていた。

 いくら物資には余裕があるとは言っても、勝利への道筋を描けないまま長期間戦い続けるのはひどく難しい。マウリッツは必死になって外部との交渉を行っていたが、状態は思わしくないようだった。

 ヒルデガルダ女王が逮捕され、即席の裁判で処刑が決まった、といううわさはすでにランツ城内にも広がっている。

 はじめのうちこそヴァンゼルト伯爵のはったりだ、という意見が多かったがこのごろはそうでもなくなっていた。マウリッツが王都に潜ませている配下からも、同盟の商人ハインダルからも、女王の目撃情報が途絶えて久しい。その身になにかあったのではと考えざるをえない状況と言えた。

「やあ、マウリッツ。ちゃんと食べているか」

 城の指揮所の中。いよいよ打つ手がなくなってきていて疲労の色も濃いマウリッツにシュラルドは声を掛けた。

 無言で首を振るマウリッツにシュラルドは務めて明るい声を出した。

「おいおい。大将がメシ食わないでどうする。無理にでも食ってるところ見せておかないと士気にかかわるぞ」

 すっかり子供のころの口調に戻ってシュラルドはそう言うとどん、とマウリッツの背中を叩いた。

 この男となにかを共にするのはいつ以来だろう、とシュラルドは思う。どんな状況であれ、この才能に満ちた男と肩を並べていられるのはシュラルドにとって刺激的なことだった。そうであるならば、と思う。受けた刺激の分くらいはなにかこの男に返してやらねばなるまい。

「やめておけ」

 ぼそりと、しかし不穏な気配には敏感な男がつぶやいた。

「待つのも戦いのうちだ。自力で何か出来ないもどかしさと苦しさを力に変えて、いざというときに備えろ。その日はいつか必ず来る」

「なにか新しい情報は入っていないか」

 問うたシェラルドにマウリッツは首を振った。

「なにかあれば、すぐに連絡する」

 自由都市商業同盟は相変わらず参戦には及び腰だったし、王都は少し地方から人々が流れてきている程度で、いずれもここしばらく大きな事件は起きてはいない。

 シェラルドはあきらめて指揮所から出た。

 兵の訓練でもするか。

 ひたすら待つだけの戦いだ。せいぜい身体でも動かしておかないと暇を持て余すばかりだ。

 練兵場に向かおうとしたところで開門を知らせるラッパの音が鳴り響いた。性懲りもなく帝国軍は降伏を勧告する使者を定期的に送りつけて来ているのだった。

 シェラルドは舌打ちして城門に向かった。

 型どおりの使者であればマウリッツが対応する必要もない。自分で充分である。せいぜいどんな嫌味を言ってやろうかと、シェラルドは思った。さすがにマウリッツのような芸術的なレベルのものは無理だろうが。

 帝国軍の軍装をした使者はちょうど馬から降りたところだった。使者はシェラルドを見つけるなり耳を疑うようなことを叫んだ。

「出迎え、大儀である」

 使者の発する言葉では間違ってもない。主君が目下の者をねぎらうときに使う言葉である。

 どこまでも帝国軍はふざけていやがる。怒気に燃え上がったシェラルドがふと違和感を覚えたのはその次の瞬間だった。

「ご機嫌よう。メリスラット伯爵。長らく心配を掛けましたね。あなたの比類なき忠義にいままで報いることが出来なかったわたしを、どうか許してください」

 なにを言われているのか、しばらく理解できなかった。軍帽を脱ぐと輝くような金色の髪が滝のように流れ落ちて、その人は本来の姿を取り戻した。

「ああ」

 あまりのことにシェラルドは声を出すのもやっとだった。

「ご無事のお姿を拝して、このシェラルドは感嘆の念に堪えません。ようこそ、ようこそおいで下さいました、女王陛下」

 

 

 

  第5章

 

   1

 

 ハールラム辺境伯が篭もるランツの城方の動きが急に活発になったのは、城内でなにやら騒ぎが巻き起こったその後からだった。

 同じ日に城方に降伏勧告に赴いた使者が行方不明になり、調べさせたところ帝国軍陣地から少しばかり離れた木の陰に縄でぐるぐるに縛られて転がされていた。それも軍服や軍帽、軍馬に至るまでありとあらゆるものを奪われており、わずかに下着一枚姿で発見されたその士官はかわいそうなことに、スラヴェニア北部の秋の寒さにやられてすっかり風邪をひいてしまっていた。

 襲われたそのときの様子を帝国軍のホールヴェン司令官は士官に問うたが、わずかに複数人の男たちに後ろから殴られたとの証言を得られたのみで、実行犯の顔立ちなどは全くわからなかった。

 しかしながらその実行犯は奪った帝国軍の軍服を着て帝国方の使者を装い、ランツ城内に堂々と侵入を果たしていることから、城方に味方する何者かであることは疑いがない。しかもその人物はたったひとりで城方の士気を大いに高めることに成功した。

 スラヴェニアにそれだけの人物が果たして誰かいるだろうか。あるいは同盟が動き出して、ついに帝国への宣戦を決めたのだろうか。

 斥候を立ててハールラム北方を探らせた方がいいな、と考えたホールヴェンは副官を呼んだが、逆に副官から緊急の報告を受ける羽目になった。

「補給がうまくいっていません。このままですと食糧は一週間でなくなります。砲弾や弾薬のたぐいも少なくなってきています」

「どういうことだ」

 ホールヴェンは怒鳴った。

 遠隔地への派兵ゆえ、帝国軍は補給には特別の注意を払ってきた。補給専属の部隊を持ち、帝国の複数の大商人とも契約して合計四万もの軍勢を維持するために万全の体制を作り上げてきた。この当時では最先端の兵站運用だと言って差し支えなかった。

 それがうまく機能しなくなった理由はただひとつ。

「商人どもが申すには、自由都市商業同盟の銀行から借りる予定だった商売の運転資金の融資を、同盟側が突如として一方的に打ち切ったのだそうです。それゆえに運転資金が不足し、規定の量を揃えられずにいるとのことです」

「馬鹿な。帝国の商人が同盟から金を借りておるだと」

「その商人は、同盟の銀行と取引のない商人は帝国にはいないだろう、とも申しておりました。つまり全ての帝国商人は、何らかの形で同盟から金を借りて商売しているのが現状だということです」

「運転資金を商人どもに貸してやれ」

「そうしたいのはやまやまですが、手元資金にも余裕がありません。本国にも送金するよう催促しているのですが」

 この時期、帝国本国もまた戦費の調達に苦心していた。質実剛健で知られる皇帝ランカスターは銀食器類を大量に売り払ったり、宮殿の貴金属を溶かしたりしてなんとか戦争遂行せんと努力していた。さらには戦時国債を発行して広く資金調達を試みたが、あまりの多額の発行であったために引き受け手がおらず、これは失敗に終わっている。

 同盟の経済制裁は、ここに来て帝国の首を真綿で締め付けようとしていたのだった。

 悪い知らせはそれだけではなかった。

 王都に駐留する帝国軍からも悲鳴が上がったのだった。

 これまた同盟の商人ハインダルを中心とする商人グループの手によって進められてきた反帝国軍工作がその牙を剥きはじめた。

 いまや王都に流入した民衆の数は彼らが目標としていた十万人を超え、なお増える勢いだった。その集まった民衆が帝国軍への抗議活動を展開するに至っては、いかに武装しているとはいえ、一万人そこそこしかいない王都の帝国軍の手に負える状況ではなくなっていた。

 やむなくホールヴェン司令官は、一部の部隊をヴァンゼルト伯爵に預け、王都の治安の回復を命じた。

 一万以上の兵がランツを離れていく様子を見て、ランツ城に篭もるハールラム辺境伯軍の士気はいよいよ高まることになったのは言うまでもない。

 残った二万五千余りとなった軍勢に対し、ホールヴェンは最初で最後の大攻勢を掛けることを下令した。

 ランツ城包囲戦はいよいよ最終局面を迎えることとなった。

 

   2

 

 王都に行く、とその人はさも当然であるかのように言った。

 ゆえに、ここにいて欲しいと、喉元まで出かかったマウリッツの台詞は声になることはなく、ただ胸の内に消えてしまった。

 替わりに出たのは、気をつけろよ、という味も素っ気もない一言だけだった。ひどく残念なことに、それ以上の何かを今の自分は言葉に出来なかった。

 五年前。最初に出会ったときのことを思い出す。

 自分は十七歳で彼女は十五歳。

 背が低く、声も高く、顔立ちも中性的で男らしくないことに劣等感を覚えていた自分を、彼女はお気に入りのおもちゃが出来たかのような目で見ていたのだった。

 その視線の意味はすぐにわかることになる。

 王族としてひどく窮屈な毎日を送っていた彼女はその息苦しさを誰かにわかってもらいたくて仕方がなかったのだ。いやがる自分を押さえつけて、嬉々として化粧を施しドレスに着替えさせると、彼女の代わりに王女として振舞うよう命じた。彼女自身はマウリッツの服を身につけて意気揚々と町へと繰り出していく。

 そんなことが続くうちに、いつしかマウリッツは彼女の影武者として年の半分くらいは王女として過ごす羽目になった。そのころは顔立ちもよく似ていたせいで気づく者もほとんどいなかったのだ。

 狭い離宮に閉じ込められていた反動もあるのだろうが、彼女は徹底した現場主義者で、なんでも自分でやってみないと気が済まないところがあった。ジャガイモが役立つ作物だと聞けば、離宮の庭を全てジャガイモで埋め尽くしたし、他の国を見てみたいと思い立ったら、同盟の学校に留学するし、とにかくマウリッツは彼女に振り回され続けた。

 いくら顔が似ているとはいえ、長期間にわたる彼女の留守中に影武者であることを気づかれないようにするのは楽ではなかった。

 そのため、ヒルデガルダの発案で馬鹿であることを装うことにした。ボロが出ないよう、出たとしても被害を小さくするにはその方が都合が良かったからだ。人が近づかなくなる効果も期待できた。

 勉強はしない。礼儀作法は無茶苦茶。何か聞かれても答えは頓珍漢。

 世間がヒルデガルダ王女の出来の悪さを嘆きはじめるまでに時間はかからなかった。だが、その影では二人は必死になってさまざまなことを勉強していた。

 それは王女が即位して女王と呼ばれるようになってからも続いた。本来であれば専任の学者が付けられて女王に進講してしかるべきところだったが、その用意がそもそもなされなかった。そのころにはもう帝国皇太子との結婚話が出ていたので、君主としてなにか教育する必要性を親帝国派の連中は感じなかったからだろう。相変わらずマウリッツひとりが教師役となって女王の面倒を見続けていたが、当然ひとりでは限界もあった。

 父が亡くなり、ハールラム辺境伯の家督を継いで帝国との戦争の準備に入ってからは王宮に伺候する時間も取りにくくなった。他国との外交交渉などは一度でいいから実地研修と行きたかったのだが、それもかなわない。

 マウリッツの目が届かないうちに女王は商人の真似事を始めたり、細作じみた工作に手を染めてみたりした。ずいぶん頭ごなしに叱ってしまったが、今思えばそれも彼女なりの試行錯誤であったに違いない。

「もう少しだけ辛抱して欲しいの、マウリッツ。帝国のおサイフはあとひと月と持たずに空っぽになるから」

 ゆえに。

 アルメールから戻る途中に寄ったというヒルデガルダの姿に、マウリッツは目を細める思いがした。

 帝国の兵站を引き受けている商人たちが武器食糧その他を調達できなくするために、商人たちへの資金を止めてしまう。

 当然気づいてしかるべき方策にもかかわらず、軍勢に取り囲まれているという圧力が頭を占めていたからか、マウリッツはそれに思い至らなかった。そこをヒルデガルダは大所高所の視点から帝国の弱点を見つけ出し、同盟に魅力的なカードを切ってその弱点を的確に衝かせた。

 知らないうちに、この人は大きくなっている。

 そしてその視点はもはやこのランツにはなく、国の中心たる王都へと向けられている。ランツ包囲戦はもはや決着がつくと確信を持っているがゆえに。

 それがわかったから、もうマウリッツには彼女を引き止めることが出来なかった。

 ただ少し、今までの道中の出来事について聞いた。

 王都を出てから彼女はいったんアルメールとは逆方向の北東へ向かい、ハインダルたちの工作活動を横目で見ながらウブリック侯爵領まで進み、そこの港から船に乗ってアルメールを目指したのだそうだ。海路ではマウリッツの情報網にも引っかかりようがない。

「エイラムは大男なのに船はからっきしだめで、ずっと顔色が真っ青のままだったのよ。あとでもう二度と船には乗りたくないって言ってた」

「誰だよそのエイラム、っていうのは」

「王都のやくざ屋さん。場末の酒場兼宿屋の用心棒をしていたところをスカウトしたの」

「やくざに用心棒させているのか」

 あきれ顔のマウリッツにヒルデガルダは付け加えた。

「通行手形なんかも偽造してくれるしなにかと便利なの。身分だって詐称し放題。今は戦場を歩くってことで高級娼婦に成り代わってるわ。ちゃんと衣装も用意してくれてこれがまたかわいいのよ。マウリッツも着てみる? ……あ、結構胸開いてるから無理かな」

 頭が痛くなった。

 常識がないというかなんというか、とにかく尋常な王ではない。

 まあ、それもいまさらではあった。

 彼女は既にランツを発ち、その後を追うかのようにヴァンゼルト伯爵の軍勢が引き上げていき、マウリッツの眼下で残った軍勢がいままさに攻勢に出ようと動き始めていた。

「さてさて。こちらもお客さんをもてなすことにするかね」

 ぼやくようなつぶやきにシェラルドが吹き出した。

「ひさびさにひと暴れ出来そうだ。よく見ておいてくれよ大将」

「ほどほどでいいぞ。どのみち城下町は捨てる覚悟だからな」

 ふたたびの哄笑。

「相変わらず大将の作戦は過激でいけないね」

 それもまたいまさらだ、とマウリッツは思った。

 

   3

 

 なりふり構わぬ弾圧が王都中を震え上がらせていた。

 女王の処刑に抗議する者はそれこそただ立っていただけでも逮捕され、裁判すら行われないまま翌朝には処刑台に送られ、銃殺に処せられる。

 そのうわさが真実かどうかはわからなかったが、王都に戻ってきたヴァンゼルト伯爵の名は人々にとっては死神も同然に聞こえたのは確かだった。

 王宮を取り囲んでいた群衆の群れをいつかのようにまた恐怖が追い散らした。

 一時は十万を超えたという王都への民衆の流入も止まり、暴動に発展しそうな熱狂が警備兵の手によって取り除かれたあとは、国教会前広場で毎日行われる罪人の処刑のほかは日常通り、という不気味な平穏が街を覆った。

 帝国と親帝国派の力はいまだに健在だった。

 政権転覆すら起こりえた王都の治安を、その剛腕であっという間に押さえ込む。それはヴァンゼルト伯爵の指導力もさることながら、それを実行するための機関がその命に服してよく働いていることの証左でもあった。

 だがしかし。ひとたび発生した山火事はそう簡単には消えるものではない。水をかけたとしても地中の埋もれ火まではなかなか届きはしない。根こそぎ消すには枯れ木や枯れ葉に水をかけるだけではなく、火元の火そのものを消さねばならない。

 ついに。

 正式にヒルデガルダ女王の死刑執行の日程が明らかにされた。

 王宮で広場の前に集まった市民に向かって、ヴァンゼルト伯爵がたんたんとそれを告げたのだという。

 反乱が起きてもおかしくない発表だったが、広場には厳重な警備体制が敷かれていたため、市民たちも何も出来なかった。

 ただ一日、一日と処刑の日が近づいて来る。

 当のヒルデガルダは何食わぬ顔で商人に化けて王都にもぐりこんでいた。

 怒りを必死に押し殺していた。

 かなうものなら叫んでやりたかった。おまえたちが処刑しようとしている女王はここにいるぞ、と。いわれのない罪を着せてこの妾の代わりに誰を処刑するのか。

 だが。今はまだそれを言う時ではなかった。同じ言葉であっても、時と場合を間違えれば意味を失う。それが一番効果を発揮する場を見つけなければ、ヴァンゼルト伯爵を倒すことは出来ない。

 誰が見ても王として正統であるということを示さなければ、著しく毀損したままの王の権威では諸侯たちが従うはずもない。

 それを示すための場を、勝負に出た伯爵は作ってくれている。

 ならば。自分はスラヴェニアの女王としてふさわしい態度で迎え撃たねばならない。

 むろん失敗すれば今度こそ命はないだろう。

 だが処刑されるのが偽の女王であろうと、スラヴェニアを実質的に支配する男が差配する処刑である。社会的にはそれが処刑された時点でスラヴェニアの女王としてのヒルデガルダは死ぬ。あとに残ったヒルデガルダがなんと言おうと、それはただの『偽者』のたわごとになる。

 狡猾なヴァンゼルト伯爵のことだ。必ずやなにか罠を仕掛けているだろう、とヒルデガルダは思った。

 だが今それを恐れても仕方がなかった。もとより処刑台の周辺はヴァンゼルト伯爵の手の者で固められているだろうから、そもそも死地に飛び込まなければならないことに変わりはない。

 女王を選ぶか、伯爵を選ぶか。

 その選択は、もはやヒルデガルダでもヴァンゼルト伯爵でもなく、処刑に集まった民の手にゆだねられている。

 そのように女王には感じられた。

(――マウリッツ)

 遠く離れた戦場で今も戦っているであろう臣下のことを彼女は思った。

 やっぱりお願いして一隊くらい借りた方がよかっただろうか。変装さえすれば、今の王都ならば潜り込むこと自体は難しくはない。

 ただ、それをマウリッツの前で口に出すことの方が難しかった。

 いや。彼だって薄々は気づいているはずだった。王都で何をしようとしているのかを。そこをあえて何も聞かずに送り出してくれようとしていたのに、そこで兵を借りたいと言えばその理由に触れざるを得なくなる。

 だからやっぱり兵を借りるという選択肢はなかった。少々いたところでヴァンゼルト伯爵の配下があくまで主人に忠義を立てるのであれば結果は変わらないだろう。

 すべては、自分に流れる王家の血の重みがどのくらいあるか。

 その一点にヒルデガルダは賭けるしかない。

 でも、博打には弱い家系なのだけど、と彼女は薄く笑った。一番上の兄は帝国との戦争に賭けて身を滅ぼした。もうひとりの兄も帝国から離反を試みて失敗した。スラヴェニア王家の命がけの博打は連敗中なのだった。この分だとお祈りしてみても、末っ子の妹に力を貸してくれるかどうか心もとない。

 じたばたしても始まらないときは、とりあえず食べて飲んで寝よう。

 宿に戻ったヒルデガルダは、酒場の主人でもあるジョルジオにいつものように大量の注文を出して顰蹙を買った。

「おまえなあ。なんだってひとりでそんだけ食えるんだ」

 明日はまた市場に仕入れに行かにゃならん、とぼやく主人に彼女は大目のチップを渡す。

「ちょっと明日は運動する予定だから」

「運動? なんだそりゃあ」

 まかり間違えばこれが最後の晩餐になる、とはさすがにヒルデガルダも言えなかった。

 

   4

 

 処刑台に上がるタイミングを図るのは簡単ではなかった。

 遅すぎるのはむろん駄目だが、早すぎても警備の兵に制止されるだけだ。

 チャンスは一度きり。処刑の合図が下されてから、銃の引き金が引かれるまでのごくわずかな時間だ。

 街娘の姿とはいえ、出来る限り女王の威厳を損ねないような衣装を選んでいたからスカートの丈も長く、うっかり裾を踏もうものならその時点で一貫の終わりだ。転んで作戦終了だなんて全く笑い話にもならない。

 執行時刻の正午に向けてじりじりとしか進まぬ国教会の大時計の針を見つめながら、ヒルデガルダはただ待ち続けた。

 そしてついに。

 十二時の鐘の音がして、ヴァンゼルト伯爵の手が上がったその瞬間に。

 脱兎のごとく、ヒルデガルダは駆けた。

 剣を抜き払い、刃を荒縄に走らせる。同時に偽の『女王』に体当たりしてその身体を伏せさせた。

 射撃音と白煙が耳と目をつんざく。

 第一段階は成功した。

 だが、ここから生きて帰れるかどうかは、この先のヒルデガルダの言葉に人々が心を動かすかどうかにかかっている。硝煙を吸わないように気をつけながら、彼女は呼吸を整えた。

 視界がようやく開けて、処刑の顛末が人々の目にはっきり映ったのを確認すると、偽の『女王』をちょうど処刑台下の最前列にいたジョルジオに預ける。

 勝負のときは来た。

 伯爵を射るように見つめ、女王としての怒りを発するときだ。

「久しいな、ヴァンゼルト伯」

 伯爵の表情は変わらない。

「だが、よもや妾の顔を忘れたとは言わせぬぞ。これがスラヴェニア国王の処刑であると言い張るつもりなら、執行台に縛られるべきはこの妾でなければならぬ。それを」

 ヒルデガルダは偽の『女王』を指して言った。

「そなたはあの無辜の民を国王に仕立て上げ、あまつさえ馘首せんと試みた。かような鬼畜にも悖る所行を、一国の王として妾は断じて許すわけにはいかぬ」

 徐々に声を張り上げて伯爵を、伯爵の配下の兵を、群衆を、ゆっくりと眺めまわしては、祈るような気持ちで反応を確かめる。

 静かだった広場が少しずつざわつき始め、やがてそれは伯爵への非難の色を帯びた。

 伯爵の配下の兵ですら、あまりの事実に動揺が見て取れる中で、ひとり伯爵だけは涼しい笑みを浮かべている。

「相も変わらず、甘いお方だ。砂糖菓子のように、ね」

 やはり、と冷たい汗がヒルデガルダの背をつたう。まだ伯爵はなにか隠し玉を持っている。長々とつづく伯爵の赤裸々な悪事の告白の間に、彼女は目立たぬように伯爵との間合いを詰める。

 いざとなれば。刺し違えてもこの男だけは除かねば。

 マウリッツに手ほどきを受けたとはいえ、しょせんは女の剣だ。どこまでやれるかはわからない。

 ああ、マウリッツ。

 わたしに力を貸して。

 やがて伯爵が爆発的な哄笑とともに数字を数え始める。誰かが上だ、と鋭い叫び声を上げたのが聞こえてヒルデガルダは意味を悟る。

 身体を前に投げ出して床の上を転がるのと、狙撃銃の着弾はほとんど同時だった。焼き鏝をあてられたような感覚が身体のどこかに走った。意識が一瞬なくなった。

「おやまあ、計画が狂いましたね」

 われに返ったのは伯爵の残念そうな言葉が聞こえた時だった。

 なんとか立ち上がったヒルデガルダの視線が、ついに彼女が最も望んでいた光景をとらえた。。

 群衆が、濁流のように押し寄せてきていた。

 一斉に処刑台段上へ駆け上がって来ると、伯爵の配下の兵を袋叩きにする。

 そして、逃げようとした伯爵もまた、あっという間に群衆に取り囲まれ、その身を引き倒されていた。

 どうやら賭けに勝った――。

 民は王を選んだ。

 紙一重の差ではあったが、なんとか博打は成功したらしい。

 実感が徐々に広がり、撃たれた痛みを和らげた。

 

 

 

   終章

 

 そこからの展開は実に速かった。

 ヒルデガルダが自らの手によってヴァンゼルト伯爵の処刑に成功すると、親帝国派の支配に嫌気がさしていた民衆たちは勢いに乗って、市中警備中の帝国軍の部隊に襲いかかり、あれよあれよという間に武装を奪い取ってしまった。

 向かうところ敵なしとなった数万の群衆は、ついには王都郊外にある帝国軍司令部をも襲撃し、激しい戦闘の末にこれを占拠した。

 同じころ王国北西部ハールラム領のランツ城包囲戦にも決着がついていた。城門を破られ、決して楽ではない戦いではあったが、最終的には帝国軍全軍の半分以上に損害を与えたハールラム辺境伯方の勝利に終わり、これにより、スラヴェニア領内の帝国軍の部隊はほぼ壊滅した。

 さらに帝国領内でも反乱の火の手が上がったため、帝国は戦争の継続が不可能になり、さしもの強気のランカスター帝と言えども、スラヴェニアからの講和勧告に耳を傾けざるを得なくなった。

 この年の末、二国間で講和条約が成立する。締結された小都市の名を取ってクローデン条約と呼称される条約は、十年前の戦争で帝国がスラヴェニアから得た領土・権利をすべてご破算にして、元通りに復することを骨子とするものであり、征服帝の北方進出の夢はここに潰えることとなった。

 講和条約締結の際に、ヒルデガルダ女王と面会したランカスター帝は、よほど悔しかったのか彼女に枕をプレゼントしている。

 意味合いとしては「このまま寝ていてくれ」という皮肉が含まれているのだが、返礼として彼女がランカスター帝に贈った物は金銀で細工された貯金箱だったというから、どうもふたりの性格はよく似ていたようだ。そりが合わなかったのも無理からぬと言うところか。

 なおこの貯金箱は現在帝都ヴィエンナの博物館で展示されているとのことであり、意外とランカスター帝は物持ちが良かったようだ。単にしまいこんでいただけなのかもしれないが。

 ともかくも、あわただしく戦後処理に追われている間に年は明け、王宮がようやく落ち着きを取り戻したある雪の日の夜、繁盛する酒場の片隅のテーブル席に一組の男女の姿があった。テーブルの皿には煮込みフリカデレが山盛りになっている。

「で、話というのはなんだ」

 男の問いかけに、女の方は口をとがらせた。

「マウリッツ。あなたは前にわたしに言ったわよね。花嫁衣装を用意しなさい、って」

「うん? そんなこと言ったか?」

 どういう文脈でそんな話をしたのか、もうよく覚えていない。婚約の儀がらみでそのようなことを言ったことがあったかどうか。

「もう。精霊の衣装を縫うひまがあったら花嫁衣装を用意しろ、って言ってたでしょう。ああ言われてから、あわてて作ったのよ、本当に」

「はあ」

「もちろん一度だって着ていません」

「そりゃそうだな」

「もったいないとは思いませんか」

「しばらく置いておけばいいじゃないか」

 ヒルデガルダは首を振った。

「戦争が終わって以来、食事が美味しくてたまりません。こんな風に毎日煮込みフリカデレを食べていてはウエストのサイズが変わるのは必定。せっかくあつらえた衣装が入らなくなるのも時間の問題です。そうなる前に、マウリッツ」

 必殺のおねだりポーズが炸裂するのは何度目だろうか。もう数えるだけ無駄だが。

「責任を取ってください」

「ちょっと待て早まるな」

 勝ち目の見えない戦がいつのまにか勃発していた。マウリッツは必死に作戦を練る。

「そもそもおまえは王族でおれは臣下だ。スラヴェニア王家と同格の家じゃあ間違ってもない。今までの慣例だってだな、スラヴェニア王家は他国の王族から結婚相手を選んでいるんだ」

「そのあたりについてはわたしも調べました。その上で、ウブリック侯爵やメリスラット伯爵ほか、信頼の置けそうな方にそっと聞いてみました」

 残念。外堀はすでに埋め立てられている。

「みなさん諸手をあげて賛成されています」

「あいつら、人ごとだと思って無責任なことを……」

「メリスラット伯爵からは、ランツ城包囲戦の折にわたしがいなかったので、ひどく挙動が不審だったとも聞いています」

 城門に破城槌が乱打されている。

「脈がないならわたしだってこんなこと言いません、マウリッツ」

 少しだけ頬を染めてヒルデガルダは言い切った。

「あなたが好きです。結婚して下さい」

 落城だ。

 マウリッツは天を仰いだ。

「ヒルデガルダ」

 マウリッツは立ち上がって顔を寄せた。そのまま唇まで一気に寄りたてる。

 味はしょっぱかった。煮込みフリカデレに振られた塩コショウが犯人だ。

「食べ終わったら、教会に行ってサインしよう。ただし、今残っている煮込みフリカデレは全部おれがいただく」

「だーめ。半分ずつ」

「花嫁衣装が着られなくなるだろう」

「わたしはいくら食べても太らない体質だから大丈夫」

 こいつに一生振り回されるのはいいことなのか悪いことなのか。

 どう見ても後者だろう、とマウリッツは思ったが、退屈だけはしそうになかった。

                                                     (了)

 

              

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