ヒルデガルダの予約




 ひどい空模様だな、とジョルジオはひとりごちた。

 昼間だというのに、真っ黒な雲が空という空を低く埋め尽くしていて、窒息しそうな圧迫感を感じる。

 覆いかぶさるように国教会の鐘が常ならぬ音で鳴り始めて、ジョルジオはますます渋面を深くした。

 時を知らせる澄んだ高音ではなく、腹の底に響く低音が繰り返されるそれは、処刑が始まる合図だとこの街の住人は誰もが知っている。

 このところやけに目にすることが増えた光景だった。

 場末の酒場兼宿屋の亭主に過ぎない身には、処刑が増えた背景を推し量るすべはない。なにやら得体の知れない大きな力がぶつかり合って、世の中が揺れ動いているのがぼんやりと感じられるだけである。

 ジョルジオの宿にも素性の知れない連中が出入りすることが増えた。

 貴族くずれと思われる風体の若者とか、商売人のふりをしているがどうみても商いの経験がなさそうな親父などが現れては消える。

 金払いは悪くないがどうにも気持ちが悪い。官憲に踏み込まれておれも一緒にしょっぴかれちまうんじゃないか。ジョルジオはこのところ気が気でなかった。

 王都一の大広場である国教会前広場は人で埋め尽くされていた。配置につく警備兵の数もまたそれに負けじと多い。この裏手にある市場へ向かうつもりだったのだが、とても果たせそうにない。

「買い物に行ったんじゃなかったの」

 若い女の声にジョルジオは振り返った。

「こんな人出じゃ、どこにも行けねえよ、ヒルダ。この分だとお前さんの晩飯は抜きだな」

「ちょっと待って、なにそれ罰ゲーム?」

「探せばそのへんにグリューワインの屋台くらいはあるだろう」

「ワインじゃお腹ふくれないじゃん」

 ヒルダは宿で長逗留している客の一人だった。細っこい身体つきのくせに信じられないほどよく食べる女で、そのくせ支払いをツケにしたがる困った客だ。

 商人の娘を自称しているこの女もまた何をしているのか得体がしれない。ジョルジオの想像ではいいところでも運び屋、悪くすると明日にでも目の前の処刑台にいてもおかしくない仕事をしていそうだ。

 ひときわ大きく鐘が鳴った。

 広場の中央に高くしつらえられた処刑台に、両腕を兵士に取り押さえられた死刑囚が姿を見せると、広場中が歓声とも悲嘆ともつかないくぐもった声で覆われた。

「誰だい。あれは」

 問うたジョルジオに答えたヒルダの顔にわずかに紅潮の色があった。

「国王陛下、でいらっしゃるそうよ」

「まだほんの娘っこじゃないか」

 ジョルジオのような下々の民草にすれば、この国の王が誰であろうと日々の生活に変わりはない。貴族たちの力が玉座をめぐってせめぎ合うようになってすでに長く、数年おきにすげ替わってゆく元首たちに関心をいだく者も、もはや少なくなっていた。

 それゆえ、今の今になってようやく現在の国王が誰であるのかを知った者はどうやらジョルジオだけではなかったようで、広場はさざ波のごとくざわめいた。

「謹聴! 謹聴!」

 段上から群衆に静まるよう手で制した背の低い男がどうやら刑の立会人とみえ、ややあって聞き取りにくいしわがれた声で死刑囚の名と罪科を読みあげはじめた。

 なすべき政務を顧みず、奢侈(しゃし)に走り、財貨を浪費し、隣国の貴族何某(なにがし)と通じ、国家の転覆を企図した、云々。

 以前に行われた処刑の時と寸分違わぬように聞こえた断罪文だった。

 腰縄を打たれ、目隠しをされ、舌を噛むことのないように口には猿轡(さるぐつわ)までかまされた娘が、数回ばかり首を横に振るのが見えた。

 罪科のありなしではなく、ただ邪魔になったから、利用価値がなくなったから始末してしまおう、という意図ばかりが露骨だったが、それに反対したり対抗しようとする勢力は宮廷にはもはやいないのであろう。

「これでまたヴァンゼルト伯爵の天下が続くわけか」

 立会人の隣で肩をそびやかせて油断なく視線を散らせている貴族の男こそが、今のこの国の実質的な支配者だった。

「させないわよ」

 耳元に響いた女の言葉にジョルジオは目を剥いた。

「させないって、おい、ヒルダ。どうするつもりだ」

 見る間に人ごみの奥に吸い込まれていった女の行動に舌打ちしながら、あわてて後を追った。こんなとんでもないところでなにかされて捕まりでもしたら最後。宿を貸していたおれまで罪に問われかねないではないか。

 人波をかきわけて進むもあっさりと女の影を見失い、気がつくとジョルジオは観客の列の最前にいた。

 死刑囚が木製の執行台に縄で縛り付けられ、いよいよ準備が整う様子がはっきりと見えた。国教会の大時計の長針と短針が十二の字の上でまもなく重なり、鐘が鳴れば刑が執行される。

 刑は銃殺刑のようだった。

 ヴァンゼルト伯爵の手前に横一列に並んだ四名の刑吏が、舶来品らしい射撃銃の照準を終え、引き金に指をかけてそのときを待っていた。

 ヒルダの姿は見当たらない。

 この状況から何をどうさせないつもりなのか。

 考えても皆目見当もつかなかった。

 多くの観客と同じように、愚かしい処刑ばかりが行われる世が早く終わることを、乏しい語彙で神につぶやき祈るくらいしか、ジョルジオにはできそうもない。

 低く、不吉な低音が人々の耳朶を打った。

 十二時の鐘の音。

 すっと上がった伯爵の手。

 轟音。

 悲鳴。

 もうもうたる硝煙。

 処刑台一帯を覆った真っ白な煙が薄れるまで少し時間を要した。

 分厚い雲の隙間からこぼれた一筋の陽の光が、結果をあばきたてるように照らす。

 何かがきらりと光り、すぐにそれは抜き身の剣であることがわかる。

 処刑台の上にやがて二つの人影が浮かんだ。

 死刑囚を抱きかかえた女の姿を認めた群集からどよめきがあがった。

「ヒルダ!」

 なにやってるんだ、と叫ぼうとしたが、逆にさえぎられ、

「ジョルジオ、ちょっと預かっておいてもらえる?」

 犬の子供でも渡すかのような調子で、ひょいと差し出されたのは先刻まで刑の執行を待つばかりだった死刑囚の娘だ。つまり『国王陛下』ではないか。

「おい、ちょっと待った待った」

 意識はないが鼓動ははっきりしている。それはいいが、ヒルダがやったことというのは、明らかに処刑の妨害だ。ジョルジオは青くなった。こんな大それたことをやってただで済むはずがない。

 女は、そんなジョルジオの様子を意にかえすことなく、剣を拾い上げたかと思うとつかつかと、ヴァンゼルト伯爵の方へと歩を進め、やがて大音声で伯爵を呼ばわった。

「ヴァンゼルト!」

 女の表情が別人のように変わった。

「そなたが余を快く思っておらぬことはよく存じておる。刀槍をもって余を除かんとする企てが、真にこの国のことを憂い、余の誤りを正さんがための義挙であるとするそなたの言明を、余とて全て否定はせぬ」

 しかれども、と女は続けた。

「しかれども、ただ王冠を動かさんがために、居所のわからぬ余を捕らえるかわりに、無辜(むこ)の民を余に仕立て上げ、あまつさえ馘首(かくしゅ)せんと試みた。まことに鬼畜にも悖(もと)る所行であると言わざるを得ぬ」

 どよめきが大きくなる。

 ジョルジオもあっけにとられるしかない。

 いまこの気を失っている『国王陛下』はごく普通の市民で、ということはヒルダが国王だということか。伯爵は、行方がわからないヒルダのかわりにこの娘を処刑しようとした。でもそんなことをしていったい何になる。

「かかる上は、そなたの身を司直の手にゆだね、追って裁きの沙汰を申し伝える。神妙にいたせい」

 顔色すら変えなかった伯爵が甲高い声でクッ、クッと笑い出した。

「相も変わらず、甘いお方だ。砂糖菓子のように、ね」

 身体をよじり、心底から面白がるような哄笑がしばし続いた。

「そんな甘いあなたのことだ。街中八方手を尽くしても出て来なかったあなたをおびきよせるにはこの手しかないとは思ってましたよ。注文どおり御来駕いただきましてまことに恐悦至極」

 最低の男だな、とジョルジオはこぶしを握り締める。

 なおも伯爵は語り続ける。

「その場で撃って差し上げても良かったのですがね、民思いなあなたの信じられない蛮勇に敬意を表して白煙弾におまけして差し上げましたよ。しかしね」

 なにかを確かめるかのように頭を振り、伯爵は言葉を継いだ。

「あなたはまだろくに政務の椅子にお座りになってないからわからないでしょうがね、民思いだけでやれるほど政治は甘くない。何かを得るために、時に躊躇することなく民に無慈悲な真似をしなければならない。ましてや今のあなたのようにね、たったひとりの民を救うために王自らが敵陣に現れるなんて、愚策も愚策、とんだ思い違いですよ」

「外道のそなたに王道を説かれても何も響かぬわ」

「あなたの言う外道の言うことも少しはお耳に入れておいた方がためになりますよ。と言ってもいまさら遅いですがねえ。実はここまでの展開は全てわたしの計画通りだったってご存知でしたかね」

 ヴァンゼルト伯爵の顔がさらに深くゆがんだ笑いを浮かべた。

「あと五秒であなたの命はなくなります。嘘じゃないですよ。わたしの計画ですからね。ハハハハハ。それではカウントダウンです。……五、四、三、二」

「上だ!」

 いち早く、伯爵の意図を見抜いたジョルジオが叫んだ。

 国教会の尖塔、商人ギルドの屋根、市庁舎のベランダに伯爵は狙撃手をひそませていたのだ。

 連続的な射撃音が上空から降り注ぐ。処刑台ごと砕いてしまいそうな恐ろしい威力の銃弾がヒルダめがけて殺到する。

 頼む。よけてくれ。

 祈りながらジョルジオは、自分よりずっと若い女が命を張っているのに、ただ祈ってばかりいるおのれがいまさらながらに情けなくなった。

 点々と滴る赤黒い血が目に入ったとき、情けなさは怒りへと変わった。

「おやまあ、計画が狂いましたね。こうなっては仕方ありません。あまり好みじゃありませんが、剣でとどめといたしましょう。……やれ」

「させるかよ」

 叫んだジョルジオが伯爵の私兵に食らいつく。

 広場中の群集ももはや黙ってはいなかった。

 数千人はいようかという群集が、地鳴りのような音をたてて一斉に処刑台段上へと駆け上がった。

 武装した兵と言えど、五人や十人に取り囲まれればなすすべもない。

 狙撃兵も含めた全ての兵が捕らえられ、袋叩きにされるまで、さほどの時間はかからなかった。

 群集たちからもっとも熱烈なリンチを受けた伯爵がどうなったかは、語るまでもあるまい。人相が変わるほど殴られた男は、手足をぐるぐる巻きにされ、足蹴にされながら女王の前に引き出された。

 群集の女たちによって血止めの処置を受けた女王は、剣を手に立ち上がると、仰向けに寝転がされた伯爵を見下ろして言った。

「今から無慈悲なことをする」

 群集がどっと沸いた。

「そなたの兵に腕を撃たれたゆえにな、手元が狂って痛い思いをするやも知れぬが、それはそなたの自業自得ということで了解いたせ」

 ヴァンゼルト伯爵の処刑は静かに終わった。

 世に言うヴァンゼルト事件とはこの一件を指すのが一般的である。

 最大の抵抗勢力の処分に成功したことにより、女王ヒルデガルダは門閥貴族の整理・縮小とスラヴェニアにおける絶対王政確立の基礎を築いたと、歴史的には評価されている。ともあれ、それはまた別の話だろう。

 あちこちで市民たちの乾杯の声が聞こえ始めた。近くの屋台から調達したのであろうグリューワインの匂いが広場中を満たし、刑場の陰惨な空気を散らしていく。

「危ないところを助けていただき、ありがとうございました」

「いやいや、悪いのはあんな外道をのさばらせていたあたしです。怖い思いをさせて本当にごめんなさい」
 死刑囚に仕立て上げられていた娘に女王はひざまずいて謝罪し、呼び寄せた部下に家まで送り届けるよう指示を出す。
 他の部下からなにやら報告を受けると女王はうなずいて立ち上がる。

「ジョルジオ」

「……は、へ、陛下」

「陛下はやめて。今までどおりヒルダでお願い。今日は助けてくれてありがとう。ジョルジオの声がしなかったら、死体になってたのはあたしだったわ」

「礼なんか言われるようなことじゃねえよ」

 気恥ずかしくなって、ジョルジオはことさらぶっきらぼうに言った。

「あとね、やっぱり仕事が腐るほどあるらしくって城に帰らないといけないみたい。今日限りで部屋を引き払いたいんだけど、……これくらいで足りるかしら」

 手渡された皮袋のずっしりとした感触にジョルジオは首を振った。

「多すぎるだろう。半分でいい」

「じゃあ、残りは煮込みフリカデレ二十人前前払いで!」

 たしかにうちの看板料理ではあるが、ごく庶民的な料理を予約する女王陛下って、どうなんでしょう。

「来る気まんまんだな」

「来ないとでも思った?」

 市場でジャガイモとひき肉でも買って帰るか。そう思いながらジョルジオはヒルダに手を振った。

                                                                      (了)

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