ヒルデガルダのケーキ




  その年、北の国はなにかに見放されたかのように天候に恵まれなかった。

 夏になったというのに厚手の上着が手放せない日々が続き、農地に植えられた麦は育つことなくむなしく枯れた。

 飢饉の恐怖が村や町を覆い、人々は焦燥に駆られて我先にと食料の買い占めを始め、たちまちのうちに物価は暴騰した。昨日買えたものが今日はもはや買えなくなる。緊急に備蓄食料を放出した聡明な領主や代官たちもいるにはいたが、効果的な対策ではもはやなかった。

 半月もしないうちに各地で騒乱が起き始めた。

 王都もまた例外ではなかった。

 広場という広場が人々によって占拠されたり、あるいは王城の周りを取り囲んだりするに至って、ようやく宮廷で朝議の場がもたれた。

「はばかりながら、もはや一刻の猶予もございませぬ」

 普段鉄面皮で知られる宰相がこのときばかりは深々と頭を下げ、主君に事態の報告と陳謝の弁を述べた。

「で、あるか」

 年若き女王、ヒルデガルダは対照的に特に表情を変えることなく、ただ淡々と聞くばかりだった。即位してまだ日も浅く、時に少女のような驕慢な振る舞いにおよぶこともあり、近臣たちの悩みの種となっていた。

「されば、恐れながら王城の備蓄庫を開き、民に食料を分け与えるよう御裁可を」

 噛んで含めるような宰相の長広舌にも、女王はさしたる関心をはらった様子はなかった。ただ首を傾げ、気だるそうに口を開いた。

「パンがないなら、お菓子を食べさせるよりほかなかろう」

 近臣たちは目をむいた。隠しようのない落胆とため息が朝議の間に満ちた。宰相もまた返す言葉を失い、しばし天を仰いだ。

「おそれながら陛下、パンも菓子も同じ麦より作られるものでありますゆえ、都にはパンも菓子も等しく払底しているのです」

「そのようなことはそちに言われるまでもなく存じておるわ」

「でしたら」

 まあ、待て、と女王は宰相の言を遮った。

「そなたらの議論はどうにもつまらなくてしかたがない。それも朝早くからだらだらと長引いて、気持ちまでクサクサしてきた。ひとまずここで議論を打ち切り、続きは午餐の後にしようではないか。腹が減ってはなんとやら、という言葉もある」

 押し切るように女王は言うとそさくさと朝議の間から退出してしまった。

 ただただ、近臣たちは互いに顔を見合わせて、困惑しきることしかできなかった。

「……いやはや。もうなんと申し上げたらいいのやら」

「年若いとは言えども、もう幼子ではあらせられぬお年。このままではわが国の行く末が案ぜられるわ」

「城の外が、いまどのようになっているのか、そもそもおわかりになっていないのではないか」

「もっと強くお諌めせねば」

 とめどなく連なる愚痴の数々に彼ら自身が辟易しそうになったころ、給仕の女たちが現れて午餐が始まった。

 北方に位置する土地柄ゆえ、お世辞にもあまり美味しいとは言えないのがこの国の料理の一般的な評判ではあったが、さすがに宮中の料理となればそれなりに洗練されたものが供される。そのため、城を出入りする貴族たちの中にはこれを目当てにやってくる者も実は少なくないとささやかれていた。

 前菜は野菜の盛り合わせ。さらにパンとクリームシチューがこれに続く。パンはもちろんぼそぼそとした黒い麦の食感ではまったくなく、もちもちとして塩気があり、シチューにぴったりあう。

 主菜は角切りの肉と玉ねぎが黄色い生地の上に転がされた、あまり見覚えのない食べ物であったが、味の方は全く心配はいらなかった。

「いつものことながら、これは旨いな」

「今日これをいただくのはなにやら気が引けるところだが」

「いやいや。腹がくちくなったところで、われらの追及の矛先はいささかもにぶらぬ」

 そうは言いつつも、中には厚かましくもおかわりを要求する者まで現れる始末。

 さすがに宰相はこのありさまに眉をひそめて、一喝した。

「おのおのがた、いままさにこの王城がひときれのパンを手に入れることもかなわぬ民によって取り囲まれているときに、のんきにおのれの腹のみを満たしている場合ではありませぬぞ」

「いいえ、宰相さま」

「何だ」

 思わぬところから異をはさまれて、宰相は鼻白んだ。

「差し出がましきことを申し上げますがお許しくださいませ。女王陛下より宰相さまにお言づてがございます。宰相さまが残さずにお召し上がりになっていただくまで、こちらにはお戻りになられない、と」

「お急ぎくださいまし。せっかくのお料理が冷めてしまいますわ」

「む、むう」

 給仕の女ごときに、と思いつつも、言い出したら聞かない女王を早く朝議に引き戻すためにはほかに手段がない。しぶしぶながら宰相はフォークを動かし始めた。

 なるほど確かに旨い。だがあまり覚えのない味だな。

 そう思いながら手早く平らげ、食後のデザートの配膳を行っている給仕の女のひとりに、すぐに女王を呼んでくるよう命じた。

「なにをもたもたしておる。早くせぬか」

「そう急くでない。わたくしはすでにそなたのそばにおるぞよ」

 これには宰相のみならず、近臣たちも飛び上がった。

 給仕の女たちと同じお仕着せにエプロン姿に着替えた女王はしてやったり、と言わんばかりの笑みを浮かべて宰相にデザートの皿を差し出した。

「これを焼いてきた。ゆるりと賞味するがよい」

 ケーキのような菓子から香ばしいにおいが立ちのぼり、宰相の鼻腔を刺激したが、もう我慢の限界とばかりに彼は女王を大喝した。

「陛下。お戯れが過ぎますぞ。民はいま、このようなケーキはもとよりパンを入手することすらかなわぬありさまなのですぞ。我らにケーキを焼く前に、この国の女王としてなされるべきことがあるはずです」

「ゆえに王宮の備蓄庫を開けよ、と申すか」

「さきほどよりそのように奏上いたしております」

「それはならぬ」

 ひとこと言い捨てるように言って女王は宰相を見つめた。なおも言い募ろうとする宰相に向かう視線が不意に熱を帯びた。

「先日、主計官に備蓄庫の在庫がどのくらいあるかを尋ねた。掛け値なしの数字を申せと命じたところ、わが国の民が節制に節制を重ねたとしてもせいぜいひと月あまりで底をつくとのことであった。次の麦の収穫までなどとうてい持たぬ、とな」

「しかしそれは備蓄庫を開けない理由にはなりません」

 反駁した宰相を制して、女王は続けた。

「では備蓄庫からすべての食料を放出したのちはそなたはどうするつもりじゃ。近隣諸国もまた等しく不作ないしは飢饉とあっては、どこかから輸入するような道筋もなきに等しい。それどころか、なけなしの食料をめぐって戦すら起こりかねぬ」

 女王は、いまやすっかり静まり返った朝議の間を見渡した。なにか苦いものでも飲み込んだかのような顔で居並ぶ近臣たちの様子に、ほのかに驚きの色があることを確かめるかのように一呼吸をおいて、さらに言葉を継いだ。

「かように困難な事態ではあるが、解決の手段がないわけではない。そなたたち諸官・諸侯の協力があれば、この難局を乗り切ることは可能とわたくしは信じている。ただいまからその手段について説明するがその前にひとつ諸君に問いたい」

「はっ」

 近臣たちがいっせいに頭を下げ、主君に敬意を示した。

「今日の午餐、わたくしが特別に作らせたものだがどうであったか」

 若い諸侯がこれに答えた。

「は。大変美味でありました。それがしは辺境出身ゆえ、恥ずかしながら味覚には自信がありませんが」

 女王は満足そうにうなづいた。

「であれば、今日の食材が何であったか、ここで明かそう」

 女王は、給仕の女が押してきた配膳台の上に山積みになったある食材を手に取って、近臣たちに見せた。

「それは、まさか」

「さよう。そのまさか、だ」

「しかし、それは毒があり、有害な植物ではありませぬか」

「毒などあれば、わたくしもそなたたちもとうに倒れておろう。いまさら怖気ついたとは言わせぬぞ。いまからこの場にいる者すべてにみっちりとこれの調理法を叩き込む。出来るようになるまで帰すつもりはないゆえに」

 いつのまにか用意されていたエプロンの山に近臣たちはいっせいに青ざめた。

 戦場で敵陣に突撃する方がマシだ、というぼやき声も漏れたが、女王は全く意に介することなく、王城の料理教室はその日の夜遅くまで続けられた。

 翌朝。

 まだ夜が明けきらぬ頃合から都の群衆たちの間では奇妙な噂が流れ始めていた。

 あの愚鈍な女王を玉座から引きずりおろし、王城の備蓄庫を開けさせるという作戦がいよいよ決行されるという日に、突如として都のそこらかしこで小さな屋台が建てられ始めたというのである。

 この期に及んで何のご機嫌取りのつもりであろうか、とある者は怒りをあらわにし、ある者は小馬鹿にした調子でその噂を知り合いに語った。

 だがそれも夜明け前までのことであった。

 日の出とともに屋台に人が立ち、たちまちのうちにパン売り、菓子売り、惣菜売りが入り乱れて香ばしいにおいを放ち始めたとあっては、噂の出所や真偽などもはやどうでも良くなってしまった。
 ことに多くの群衆が集まっていた都の目抜き通り沿いには屋台が多数建ち、客引きの呼び込みの声がかしましく響いた。

「はいはい、パンだよ、焼きたてのパンがたったの銅貨一枚きり。さあさあ買った買った」

「野菜たっぷりのコロッケが揚がったぞ。銅貨二枚でどうだい」

「甘い甘いケーキが驚きの銅貨三枚!」

 群衆たちは耳を疑った。

 暴騰しているはずの食べ物が信じられない安さで売られているのだから、無理もなかった。彼らは疑いつつも、しかし脱兎の勢いで屋台へと殺到した。

 初めこそ長い列が出来た屋台もあったが、よほど大勢の人手を動員しているのか、食べ物が出て来るまで待たされた者は少なく、しかも群衆全体に行き渡ってもなお食材が底をつく気配がなかった。数は限られていたが酒を提供する屋台まで現れており、それこそ飲めや歌えの大騒ぎがあちらこちらで始まっていた。

 一年で一番の祭りである収穫祭が少し遅れて始まったのだろう。群衆たちはそう噂し、自らが暴徒となる寸前であったことなどもはや忘れてしまったかのように振る舞ったのであった。

「いやはや、まったくこのような腹案をお持ちだったとは」

「お祭り好きで、美味しい食べ物に目がないあの方らしい、と言えばそうだが。しかしパンを馬鈴薯で作るなど我らには想像すら出来ぬことだ」

「直轄領で大量に栽培させておられたとか。常識にとらわれず、毒と思われていた食べ物の調理法まで研究なさっていたとは恐れ入りますな」

「わしは人を見る目があるのが取り柄だと広言してきたが、この飛び切りの眼鏡違いですっかり信憑性がなくなったであろうな」

「仕方がありません。われわれとは物差し自体が違うのでしょう。ほらほら閣下、あんなところにいらっしゃいましたよ。しかしまあこれはすごい行列だ。評判なんでしょう」

「……なんとまあ、下々の民相手に菓子屋台とは」

 宰相は嘆息しながら、若い諸侯とともに屋台に駆け寄った。

「はい、ありがとう。次のお客さんどうぞ。っと、そこのおじさんたちは、一番後ろに並んでくれない? 順番なんだから」

「陛下! このようなところでなにをなされていますか」

 宰相は小声で叱りつけたが、女王は慣れた手つきで焼きあがったケーキをナイフで切り分けながら、面倒くさそうに答えた。

「見ての通り、今忙しいんだけど」

「王城にお戻りください。やっていただくことが山のようにございます」

「よきにはからえ、と言ったよ。何日かは騒いでもらって飢饉なんて嘘っぱちでした、って民に印象付けるのが大事なんだから、ほかのことは後回し。どうしても、っていうならそこの籠に入った馬鈴薯の皮を全部剥いてくれたら考えるけど」

「そ、それだけはご勘弁を」

 二人はそさくさと逃げ出した。昨晩数えきれないほどの馬鈴薯の皮を剥かされてすっかり手指が澱粉臭くなっている二人にはもはや悪夢以外の何物でもない。

「まったくあの方は、なんというか」

 去り際になぜか押し付けられた馬鈴薯のケーキを口に運びながら、宰相はつぶやいた。素朴ではあるが甘く、ふわふわした食感がお菓子らしさを主張してなにやら愛らしい。大口を開けてぱくついた若い諸侯がなだめるように口をはさんだ。

「庶民的なことがお好きでいらっしゃるのでしょう。陛下がお示しになった方針に従って、次はわれらが頑張る番です。うん、これはうまい」

 かくして二日、三日と『祭り』は続き、四日目には休業していた市場や酒場、宿屋などが営業を再開し、都は平静を取り戻した。

 都以外の町や村にもこの『祭り』は次々に伝播し、国じゅうに広がったころには、麦の値段こそやや高止まりしてはいたが、女王が強く命じたために低廉な価格で流通していた馬鈴薯が、まるで昔からそこにあったかのように庶民の食卓の上に置かれていた。毒があるとして恐れられていた面影はもはやどこにもなかった。

 こうして北の国は、この大凶作の年をほとんど餓死者を出さずに乗り切ることに成功した。それ以来、かの地では大々的に馬鈴薯が栽培され、数年ほどで麦にとって替わるほどの主食の地位を占めるまでに普及することとなった。

 人々は後世にこの出来事を語り継ぐとともに、女王の功績をたたえる顕彰碑を、都はもとより各地の町や村に建立した。

 ことに都の目抜き通り沿いに建立されたそれは、馬鈴薯で作るケーキの詳細なレシピが彫られていることで著名であり、またそのレシピ通りに作った伝統的なケーキのことを当地では特に『ヒルデガルダ』と呼ぶのは、言うまでもなく女王の名にちなんだものである。


                                                                      (了)

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